Bリーグ

2024.05.29

【2019年5月掲載】山崎稜インタビュー「オフェンスでもどんどん点を取れて、ディフェンスでは相手のエースを止められる選手が理想」



スラムダンク奨学金第4期生として渡米
本場のバスケットを体感


──その後は『スラムダンク奨学金』を受けてアメリカのサウスケント高に留学しました。

 最初は書類審査と自己PR、あと試合のDVDを1枚送りました。どれくらいの応募があったかは知りませんが、その中から何人かに絞られます。その後、5人程度になったところで実際にアメリカに行って、1週間ほどコーチの下でバスケットについていろいろ見てもらいました。ファンダメンタルの部分からウエイトの測定など、かなり本格的です。それらがひと通り終わった数日後に合否が出るというシステムです。

──申し込みは自分から行なったのですか?

 高校のコーチのところにパンフレットが届いたようで、それを僕のところに持ってきて「こういうのがあるらしい」と勧めてくれました。僕も奨学金のこと自体は知っていました。月バスで1期生の並里成さん(FA)が特集されているのを見ていたので。でも、まさか自分のところに来るとは思いませんでしたね。「どうせ受からないだろうな」とダメ元で受けたんですが、受かりました(笑)。

──留学となると英語を勉強する必要などもありますが、学力面は審査の対象には含まれないのですか?

 テストのようなものはなかったのですが、アメリカで何日か生活する中で、実際に高校の授業に参加する機会はありました。全く分からなかったですね。語学力の審査などはなく、バスケットのみでした。

──アメリカでの生活はどうでしたか?

 最初は英語ができなかったので大変でしたが、徐々に慣れてきて楽しめるようになってきました。4月に渡米して6月になるとすぐに夏休みに入ります。プレップスクールは1年制なのですが、その2か月間だけ3期生の選手といる期間があって、そこで日常生活やシーズン開幕からの流れのようなものを聞きました。夏休みの期間中は学校が閉まってしまうので、語学センターに通っていました。9月に学校が始まる頃には最初に比べればかなり英語が聞き取れるようになっていましたね。英語しか飛び交わない環境で過ごしていれば、耳が勝手に慣れていきます。



──バスケットのシーズンは9〜10月スタートですよね?

そうですね。9月から徐々に練習をしていき、10月頃にシーズンが始まります。レベルは高かったですね。NBA選手を輩出している学校との対戦もありました。僕はどこの学校が強いとかはあまり知らなかったのですが、どこの誰が強豪大学からオファーされているというような話は耳にしましたね。試合の最中は全員外国人という感じだったので、誰が誰か分からなかったです(笑)。

──対戦相手やチームメイトで、後にNBAでプレーした選手はいましたか?

 僕の1つ上の代にモーリス・ハークレス(元トレイルブレイザーズほか)がいました。一緒にワークアウトをしてもらったこともあります。同学年だとNBAにはいないと思いますが、テキサス・レジェンズで富樫勇樹とチームメイトだったリッキー・レド(現バーレーンリーグ)がいますね。すごくうまい選手でした。他校の選手は…。当時は「でけーなー」と思っていた程度です(笑)。

──日本との違いを感じたところはどこですか?

 最初にびっくりしたのは、みんなお菓子を食べながら授業を受けていたことですね。「え?」と思いました。タブレットを教科書代わりに授業を受けていたのですが、みんな先生に見えないようにうまく隠してゲームをしたり。いろいろと自由でしたね。僕は勉強もバスケットも何とかやっていました(笑)。

──その後はタコマコミュニティーカレッジに進学しました。

 進路を決める際にTOEFLとSATという大学進学のためのテストが2つあります。その点数があまり伸びず、学力的にディビジョンⅡの大学でギリギリ行けるかどうかくらいだったんです。なかなか進路が決まらない中で一旦帰国したのですが、その間もサウスケントのコーチやスタッフと連絡を取り合っていて、スタッフの方から短大があると提案されました。そこがタコマコミュニティーカレッジなのですが、バスケットにも力を入れていて強い学校でした。学力的にも問題がなさそうだったので、そこに決めました。

──進学後の印象は?

 学業面では英語にも抵抗がなくなっていましたし、そのほかの授業も付いていけると感じていました。苦ではなかったですね。バスケットについては、また新しいチームになって人見知りな部分が少し出てしまい、最初のうちはあまりなじむことができませんでした。ただ、時間とともにそれも少なくなってきて、試合にも少しずつ出られるようになりました。それ以降は楽しくやっていましたね。

──留学してからのコート上での役割は何でしたか?

 ガードはほとんどやっていません。サウスケント時代はコーチが僕のシュート力を買ってくれて、シューターとしてコートに立っていました。あとはディフェンスを頑張ってこい、と。3&Dのような役割でしたね。大学でも同じようなプレースタイルでやっていました。



富山時代。キャリアの始まりはbjリーグだった

卒業を待たずに帰国
トライアウトを経てbjリーグへ


──その後、短大の卒業を待たずに帰国し、bjリーグでプロになりました。その理由を教えてください。

 6月にbjリーグの合同トライアウトがあることを知りました。僕としては短大にもう1年いるか、こういったトライアウトを受けるかは決めていなくて、ちょうど学校も終わる頃だったのでトライアウトを受けてみようと思ったんです。最初はそこまで深く考えずに受けていたのですが、だんだんプロの道に進もうかなと考えるようになりました。その後、チームごとのトライアウトを受けていたところ、埼玉ブロンコスからお話をいただきました。どこかに引っ掛かればそこに行こうと思っていたので、プロになることを決めました。

──最初は練習生からのスタートでした。プロなって感じたことは何ですか?

(外国籍選手の)高さの面に関してはアメリカで慣れていたので、問題はなかったです。プロは学生のバスケットと違ってチームプレーを徹底するんだなという印象でした。アメリカは1対1からゲームを作っていくという感じでしたが、プロではフォーメーションが基本です。プロの世界はこういう感じなのかと思いました。

──苦労したことは何でしたか?

 埼玉では練習生からのスタートだったので給料もなく、アルバイトをしていました。朝ウエイトトレーニングをして、それからアルバイトに行って、夜の練習に参加するという生活でした。当時は実家にいたのですが距離もなかなか遠くて、電車で片道1時間以上かかるようなハードな生活でした。でも、若手はこんな感じでスタートするのかなと思っていましたけどね(笑)。

──bjリーグでは埼玉、奈良、富山に在籍し、富山では2016年にbjリーグとして最後のファイナルを経験していますね。

 有明コロシアムは高さがあるというか、声や音が響くというか。応援もすごいので、それを聞いたときは鳥肌が立ちましたね。最後のシーズンに良い舞台に立てたなと。アメリカでもあの規模の試合はディビジョンⅠでないと味わえないかもしれませんね。すごかったです。良い経験ができました。



取材・文/堀内涼(月刊バスケットボール)

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