月刊バスケットボール6月号

Bリーグ

2024.04.30

アルティーリ千葉の快進撃を支える「縁の下の力持ち」、デレク・パードン長編インタビュー

©B.LEAGUE

B22023-24レギュラーシーズンを564敗、勝率.933という歴史に残る快進撃で駆け抜け、悲願のB1昇格を目指してプレーオフに臨むアルティーリ千葉は、登録された全員が何らかの特筆すべき貢献をもたらしていた。このチームでヒーローを誰か一人に限定するのは率直に言って不可能だ。ただ、新加入ながら最終節を除く58試合に出場したデレク・パードンの安定感あふれる活躍は、間違いなく特筆に値する。


パードンは出場試合規定(60試合の85%に当たる51試合以上の出場)に達したB2のプレーヤー全体の中で、期待される項目のあらゆるものでハイレベルな貢献をもたらした。

☆デレク・パードンの2023-24レギュラーシーズンの主な成績
14.8得点(13位)
フィールドゴール成功率64.1%(5位)
9.7リバウンド(7位)
3.6オフェンスリバウンド(3位)
1.0スティール(18位)
0.6ブロック(18位)

ちなみに平均アシスト2.9本は、アルティーリ千葉のガード陣3人(杉本慶、大崎裕太と前田怜緒)を除くメンバーの中でトップ。リーグのトップ10に入るスコアラー(ブランドン・アシュリー)がいて、アシストとスティールでトップ3に入るプレーメイカー(杉本)、リーグ最強の3Pシューター(大塚裕土)とフリースローシューター(木田貴明)、トップ3のショットブロッカー(アレックス・デイビス ※アシュリーも5位)がそろうアルティーリ千葉だが、そのチームに完璧と言えるほどにフィットし、自身は無冠であるにもかかわらず、究極的な「縁の下の力持ち」ぶりを発揮したことを、これらの数字が物語っている。

ビッグマンとしては極端に大きいわけではなく、「アンダーサイズ」と呼ばれる203cm。近年ニーズの高い3&Dタイプでもない。初来日で言葉の壁もある。オーソドックスなビッグマンらしさ、その良さを最大限に発揮して、ここまでうまく機能できたのはなぜなのか。その答えに思いをはせるべく、パードンとのロングインタビューをお届けする。
※この取材はアルティーリ千葉協力の下、今シーズン開幕前に実施したものです。


デレク・パードン(Dererk Pardon): 1996年10月1日生まれ(米オハイオ州クリーブランド出身)|身長203cm/体重107kg|C/PF|ノースウエスタン大卒(写真/©B.LEAGUE)





レブロン・ジェームズのアカデミーが飛躍のきっかけ

――まずは、パードン選手がどんなふうにバスケットボールを始められたのか、とても興味があります。

僕がバスケットボールを始めた時期は、アメリカでは比較的遅い部類です。だいたいの子たちは5-6歳で始めると思いますが、僕は13歳までやっていませんでしたから。親しみはあったんですよ。でも本格的にプレーする機会はなくて、裏庭のゴールでいとこや兄弟で遊ぶようなものだけで、13歳で中学校に入ってからちゃんとやるようになりました。

――バスケットボールのどんなところを好きになったのでしょうか?

これと言ってうまく説明できないんですけど、いろんなスポーツをやらせてもらっていつの間にか引き込まれていました。ベースボールやアメフトも楽しかったけど、バスケットボールにはほかと違う楽しさがありました。最初からうまくできたわけでもなかったのに、日々うまくなりたいと思ったし、いつもやっていました。

――オハイオ州クリーブランド出身で、レブロン・ジェームズのシューティングスターズ・バスケットボール・アカデミーに入られていたんですよね。

ええ、AAU(Amateur Athletic Union=若年世代の育成に主眼を置くアメリカのスポーツ団体)はそこからで、高校に入ってからなのでやっぱり遅めですよね。コーチが僕の両親に連絡をくれて、トライアウトを受けてみるかということになって、合格しました。高校時代はずっとレブロンのAAUでプレーしました。

――でもやっぱり上手だったから誘われたんでしょうね! 当時から大きかったですか?

同学年ではだいたいいつも大きい方でしたね。でも、グンと伸びたのは14歳から15歳にかけての頃で、8年生(日本の中2にあたる学年)で180cmくらいだったのが、フレッシュマン(9年生=日本の高1)で194-195cmになっていました。

――クリーブランドはバスケットボールの人気が高い街だと思いますが、住み心地はどんな感じですか?

居心地のいい街です。僕が育ったあたりは恵まれた地域ではなかったですけど、家族は僕をしっかり育ててくれました。友だちもすごくいいやつばかりで、僕が正しい道から外れないようにいつも見守ってくれていました。学校でいろんな活動に参加しながら、危ないことに巻き込まれずに大きくなることができたのは、僕を守ってくれる基盤があったからだと思います。

――いとこやご兄弟とバスケットボールをしていたというお話でしたが、バスケットボール一家という感じだったんですか?

そこまで言えるかわからないですが、叔父も年上のいとこもスポーツをしていたし、そのいとこたちとのプレーが、僕が今の立場まで上がってくる土台なのは間違いないです。ここまで高いレベルまでやったのは僕が初めてで、そういう意味では新境地なんですけどね。

――これまでの人生には特別な出会いもあったと思いますが、特にバスケットボールでお世話になった人について少しお話いただけますか?

やはり一番は両親です。特にアメフトをやっていた父ですね。父はアメフト畑の人なので、最初は僕がアメフトの道に進むように背中を押していたみたいです。実際に僕もアメフトをプレーした時期がありますから。でも僕自身はバスケットボールを好きになって、しだいにうまくなっていったので、父は僕の様子を見てこの方向で伸びていけるように応援してくれました。

父は僕が地に足をつけて謙虚に、真面目に生きていけるように見守ってくれた存在です。タフにフィジカルに、一所懸命頑張る内面的な姿勢も父譲りです。それが父の姿だったし、今もそうです。誰に影響を受けたかといえば父が一番でしょう。

バスケットボールでといえば、やはりレブロン・ジェームズのシューティングスターズ・アカデミーがターニングポイントで、当時のヘッドコーチだったダニエル・ラブという人にお世話になりました。彼女はレブロンの叔母にあたる人物で、僕の潜在能力と可能性に気づいてくれました。僕よりもうまくて経験豊富なプレーヤーと一緒にプレーさせてくれたり、いろんな形で応援してくれました。結果をほしいときにしっかりプレーしてこられたのも、そんな機会をもらえていたからです。僕が力をつけながら意欲を燃やしてきた過程でのターニングポイントはそれでした。

――ビラアンジェラ・セントジョセフ高では、オハイオ州とケンタッキー州のオールスターチームに選出され、APオールオハイオ州セカンドチーム入り。キャプテンを務めましたね。

高校時代は僕にとって特別な意味を持つ時期で、グループ自体も特別だったと思っています。ビラアンジェラ・セントジョセフ高は歴史的にスポーツが非常に強くて、1990年代から2000年代初頭にかけては、男子バスケットボールも州選手権で何度も優勝するようなチームでした。でも、2000年代半ばから2010年代にかけて成績が落ち込んだ時期があったんです。僕が入ったのはその頃で、有力な新入生が5~6人そろって、幸運にも僕がいる間に州選手権で2度優勝するなど、軌道を上向きに戻す力になれました。

うまくいったのは、同じ高校の卒業生で現役時代に何度も王座獲得に成功した経験を持つベーブ・ワズニアックHCのおかげです。僕らにとっては本当にお世話になった人で、規律と権威のある人格者です。プレーヤーとしても人間としてもしっかり鍛えてもらえました。厳しく接しながらいつも僕らに寄り添って、安易な選択をしないようにしてくれたからこそ、僕らは高校でも大学でも素晴らしいキャリアを築く準備ができたんです。

――その頃、コート外ではどんな高校生だったのですか?

あまりおしゃべりが上手ではありませんでした。幼い頃からとても恥ずかしがり屋で内向きな方で。でも、話したり一緒にいたいと思える仲間や家族に恵まれていて助かりました。10代の頃は家族や友だちと過ごす時間が多くて、その中でバスケットボールを頑張りながら楽しくやっていましたね。

いっぱしの人間として育っていく上で、あの年月はとても大事だったと感じています。今の僕の土台になっているわけですから。当時の僕はとても控えめで、気の合わない人とはほとんどつきあわなかったですが、近しい人となら話すのも好きで、友だち同士だと感じてもらえるようなことをしていました。

——今はどうなんでしょう?

今もあまり変わっていない気がします。でも、当時より今の方が自分に自信を持てるようになったと思います。長話ししたり、ほかの人たちとの関係を楽しんだりすることで、いろいろと学ぶことができますよね。だから、ここでもみんなと交流するようにしています。日本人のチームメイトともそうで、言葉の壁があるのは承知の上で、彼らの文化を学んだりコミュニケーションをとろうして楽しんでいますよ。


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取材・文/柴田 健(月刊バスケットボールWEB) (月刊バスケットボール)

タグ: アルティーリ千葉

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