月刊バスケットボール5月号

“籠球群像”A東京のタフなベテランフォワード菊地祥平

 11月25日発売の最新号、『月刊バスケットボール2021年1月号』の籠球群像 第32弾は、アルバルク東京#13菊地祥平のキャリアに迫る!!

 

 タフなディフェンダー、勝利の味を知るベテラン。今でこそ、こういった印象がある菊地だが、順風満帆なキャリアを歩んできたかといえばそうではない。

 

 バスケットを始めたのも大好きだった兄の影響だそうで「その頃は何かと兄に付いて遊ぶのが僕の中で当たり前で、バスケットに限らず、兄が遊びに行くなら無理矢理にでもそれに付いていくような感じだったので、それと同じ感覚だったんだと思います。たとえ、それがバスケットじゃなくてバレーボールや野球だったとしても付いていったと思いますし、当時はただただ兄と一緒のことがしたかったんですよ」と菊地。

 

 ミニバスチーム自体も特段強豪だったわけではなかったが、自分の代では身長の大きなメンバーがそろっていたこともあって全国大会に出場。そこで全国区を初めて知ったわけだが「僕の勝手な印象として『デカいとあんまり動けない』というものがあったんです。でも、対戦相手にデカくて動けて外からも入る選手がいて、その選手を3人がかりでも止められませんでした。そのとき純粋に『すげえな』って思ったんですよね」と、レベルが高い相手とやるたびに、負けるたびにもっと上手くなりたいという思いが込み上げ、気付けばバスケットの“沼”にハマっていたそうだ。

 

 ミニバスのメンバーがそろって同じ中学に進んだが、中学のバスケ部は監督不在。「顧問の先生はいるんですけど、引率係という感じでバスケットのことは全く知らない先生でした。先生はルールも分からないので練習メニューから試合のベンチワークまで僕ら選手でやっていたんですよ」と菊地。当然、交代のタイミングやハードな練習メニューを取り入れるかどうかなど、たびたび衝突はあったが、選手たち自身で1から10まで考えてバスケットに取り組めた環境は今にもつながる大きな財産となったそうだ。

 

日本大山形高時代

 

 高校は日本大山形高へ。入学当時、身長が187cm前後あった菊地だが、ポジションは4番をメインに時に3番もこなしていた。「コーチからは『将来のことを考えれば3番をやらなければいけない』と言われていました」と中村紀男コーチの将来性を重視した指導が今に至る原点となっているようだ。しかし、当の本人は『自分の実力では通用しない』と考えており、大学でバスケットを続けるつもりもなかった。「コーチは逆に将来を考えて3番までやれれば、その先もあると思ってくれていたようです。コーチの言葉がなければそこまで意識はしていなかったんじゃないかと思います」と菊地。将来を気にかけてくれる良き指導者との出会いが菊地の未来を切り拓いていた。

 

 大学は日本大へ。進学先については親と中村コーチに委ねていた。親が安心してくれる選択肢を選び、決めてもらったからにはそれに恥じない大学人生を送ろう。そんな決意を持って日本大の門をたたいた。

 

 当時の日本大には山田大治(元富山ほか)を筆頭に実力者がそろっており、菊地が1年時にインカレ制覇。同期にはチームメイトに太田敦也(三遠)、他大学には竹内公輔(宇都宮/慶應義塾大卒)と竹内譲次(A東京/東海大卒)を筆頭に岡田優介(東京Z/青山学院大卒)、正中岳城(元A東京/青山学院大卒)石崎巧(琉球/東海大卒)ら錚々たるメンツが並ぶ。

 

日本大時代

 

 そんな猛者ぞろいの世代の中で菊地はスコアラーとして活躍。それはのちの東芝入団以降も変わらず、その時点ではまだディフェンダーとしての役割を担ってはいなかった。東芝入りしたのもオフェンス力を買われてのことで、入団の決め手は親の決断。「恩返しではないですけど、自分でお金を稼げるようになるまでは親が安心できるような選択肢を取ることにしていました」と菊地。一見すれば人任せに見えるが、それが菊地の考えだった。

 

 その東芝では思い悩むことが多かったそうだ。「なかなか結果を出せない時期が長く続きました。会社員として午前中は仕事をして、午後から練習という日々だったので、試合に敗れた次の日に会社に行くと何ともいえない雰囲気が職場に流れていて…」という難しい日々を過ごす中で、『引退』も頭によぎる。「会社のために戦っているのに結果が出ず、バスケットとも向き合えないような時期も正直ありました。そこまで現役にこだわっていたわけではなかったので、このまま続けてもな…って思ってしまうこともありました」。

 

 しかし、家族の考えは違った。「もう一回頑張りなよ」と菊池を励ました。「それで、『じゃあ逆にバスケットのみに打ち込める環境を一度味わってみよう』と思って、トヨタ自動車に移籍を決め、今に至ります」。この言葉がなければ、菊地がこの取材を受けていることもなかったかもしれない。

 

 当時トヨタ自動車のヘッドコーチだったドナルド・ベック(現名古屋Dアシスタントコーチ)は菊地にディフェンダーとしての役割を与えた。明確な役割を言い渡された菊地は、バスケットにもう一度真摯に向き合い、強豪で「勝つための方法や練習の仕方」(菊地)といった新たな発見を得た。

 

 そしてBリーグ開幕。2018年には11年目にして自身初のリーグ制覇を達成し、今に至る。現在36歳の大ベテランは「チームが必要としてくれているのであれば、どんな仕事であれやっていこうと思っています」と決意を語る。まだまだ菊地は第一線で活躍を続けてくれそうだ。

 

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(月刊バスケットボール)



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