月刊バスケットボール5月号

“籠球群像”SR渋谷で輝きを放つ石井講祐

 10月24日発売の最新号、『月刊バスケットボール12月号』の籠球群像 第31弾は、サンロッカーズ渋谷#27石井講祐のキャリアに迫る!!

 

 千葉県船橋市出身の石井は元々はサッカー少年だった。しかし、「一緒にサッカーをしていた友達が転校したりユースチームに入ることになったりして、特に仲が良かった友達が誰も入らない感じになった」と小学4年生からミニバスを開始。これには競技経験者だった父の影響もあったそうだ。

 

 中学では県ベスト8が最高成績。注目を集める選手だったかというと、そうではなかったが、「高校では『絶対に全国に行きたい』と思っていました。全国に行ける可能性がある高校で、かつ勉強もしっかりとしたかったので学業面の環境も整っているところを絞っていった結論が八千代高でした」と県内屈指の強豪校に進学した。

 

 そこで全国大会出場を経験した石井だが、実は石井の代は中嶽誠コーチ(現順天堂大准教授)が指揮を執る最後の年で、「僕らが入学する年に、近々、中嶽先生が異動するのではないかといううわさが流れていました。そのため、僕らの代で県選抜に入っていた選手は一人も八千代に来なかった」という背景があった。当時の八千代高は言わば“雑草軍団”であり、周囲からも「今年の八千代は弱い」と言われていたそうだ。しかし、チームは石井の3年時に地元の千葉インターハイに出場。4強を守り続け、周囲の評価を覆して見せた。

 

大学時代の石井

 

 高校卒業後は東海大に進学したが、当初はバスケットは高校までと考えていたそう。ただ、「東海大でバスケットができる可能性があったので、『高校で全国大会に出られたから次は日本一だな』と思ったんです」と第一線でのバスケットを続行。マンツーマンディフェンスを主体とする東海大で高校時代ゾーンディフェンスをメインに戦ってきた石井は苦戦したが、陸川章監督や現在、宇都宮ブレックスのアシスタントコーチで、当時東海大のアシスタントコーチだった佐々宜央氏の指導の下、着実に力を付けた。日本一という目標には届かなかったが2年時には新人戦で東海大史上初優勝を収めるなど、同期の古川孝敏(秋田)、大塚裕土(川崎)ら「横のつながりを大事にする選手たち」との絆を武器に戦った。

 

 石井は自身のキャリアを「スーパースターが集まっているというわけではありませんが、みんながそれぞれ努力してチームとしてのプロセスを積み重ね、最後は実績ある選手たちを倒すという“下克上”のようなことが多い」と表現する。

 

 大学卒業後は富士通で営業マンをしながら「会社の部活動」として週2回バスケットを続けていた。仕事も自身の性に合っていたそうで、その環境に不満はなかった。しかし、徐々に『もっとバスケットがしたい』と考えるようになり、大学時代に断念したトップリーグ入りを目指すことに。不思議な巡り合わせだが、タイミングを同じくしてNBLに参入したのが他でもない千葉ジェッツだった。地元クラブでプロ選手になることを夢見た石井は、千葉の練習生となり、14年には念願の選手契約。デビュー戦は「うれしかったですね。地元クラブのユニフォームを着てコートに立って紹介された瞬間は本当にうれしかったです。それと同時に『もっと活躍したい。もっと試合に出たい』という思いが出てきて『ここからがスタートだ』という気持ち」だったそうだ。

 

 プロキャリアの始まりだった。

 

天皇杯優勝の経験は石井にとってかけがえのないものだ

 

 以降、年を重ねるにつれて千葉の主力へと成長し、2017年から19年にかけて天皇杯を3連覇。学生時代に成し得なかった日本一をトップリーグの選手として成し遂げたのだ。現在はサンロッカーズ渋谷に移籍し、2年目のシーズンを戦う石井。新型コロナウイルスで中断となった2019-20シーズンでやり残したことを達成する戦いが始まっている。石井は言う。「昨季は2017-18シーズンよりも良い成績を残すことができたので、周りからは「渋谷はよくやった」と言われますが、実際には東地区4位で全体でも5位です。成績だけで言えば上がいるという事実がある中で『よくやった』と言われるということは、まだまだ今のサンロッカーズはそういう評価だということです。つまりサンロッカーズに対する周囲の基準はそのレベル。その基準を崩していきたいし、もうそこにいるチームではないことを証明していきたいです」。学生時代と同じく、チームとしてのプロセスを大切に戦う石井のキャリアは今後も続いていく。

 

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(月刊バスケットボール)



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