月刊バスケットボール8月号

発売中『月バス』2月号では豊浦高(山口)を率いる枝折康孝コーチのフィロソフィーを紹介!

 現在好評発売中、12月25日発売の月刊バスケットボール2月号では、指導者インタビューの第41弾として、豊浦高(山口)を率いる枝折 康孝コーチが登場!

 

 毎年さまざまな工夫を凝らして全国の強豪に挑んでいる豊浦高。 公立校ながら2014年や18、19年には全国16強入りでインパクトを残した。 そんな豊浦を率いる枝折コーチは、全中にも出場した“田臥世代”の一人。 「常に学ぶ姿勢」「人を認める」という言葉に込められたフィロソフィーとは――。(下記に一部抜粋)

 

 

指導者になることを見据え

幅広くバスケットを学ぶ

 

――岩国高校卒業後、天理大に進学したのはなぜですか?

「関東の大学に行くことも考えたのですが、天理大は父の母校で勧められたこともありますし、何より二杉茂先生のハーフコートバスケットに興味がありました。当時は能代工業やいすゞ自動車のような走るバスケットが主流でしたが、あえて走らずディレイドでフォーメーションを使うのが二杉先生。それは中学や高校で教わっていたのといわば真逆のスタイルで、指導者になることを考えたら、いろいろなバスケットを勉強した方がいいのではないかと。それは今思っても良い選択だったと思います」


――どんな4年間でしたか?
「1回生からいきなりスタートのPGとして起用してもらったのですが、最初はキツかったです。フォーメーションも100個くらいあって、最初は何をすればいいのか全然分からず…。コールが遅れれば先輩から怒られるし、ミスをすればすぐ交代させられるしで、とにかく必死でした。毎日練習が終わると先輩に質問しに行って、毎日バスケノートを書いて。当時は星翔高校の石司雅実さんや山城高校の西田和史さんが天理大にいて、いろいろアドバイスをもらいながら貴重な環境で学ばせてもらいました。それに3、4回生のときには関西選抜に入って、他大の監督たちのバスケットにも触れることができましたね。
二杉先生には戦術的な部分はもちろん、バスケットへの向き合い方や『コートに入ったら目の前の相手を絶対にやっつけてやる』という戦う姿勢も学ばせてもらいました。二杉先生は練習中も当時はずっと座らず立ったまま指導していましたし、3部練の合宿の合間に高校生に向けたクリニックをするなど、とにかくタフで情熱がある方。勝ちへの執念みたいなメンタリティも、二杉先生や当時の先輩たちからすごく学んで、どんな相手にもあまり物おじしなくなりました」


――卒業後は、まず母校の岩国高で男女を指導していたそうですね。
「岩国高校で常勤の講師をさせてもらうことになり、5年いたうちの最初の2年は男子、残りの3年は男女を教えていました。男女であまり変わらないかなと思っていましたが、やはり男子がすぐできるプレーを女子はできない、ということもありました。でも逆に、女子は教えたことを忠実にやろうとするので、丁寧に指導すれば結果が出る。すぐまねできないからこそ女子の方がきちっと細かく指導する印象がありますし、運動能力のない部分をどう埋めるか試行錯誤してきたので、女子を教えていた経験が今に生きている部分はあると思います。
当時は僕自身、教員チームや成年国体チームで競技を続けていたので、3メンや5対5など生徒に交じってプレーしながらコートの中で指導していました」


――岩国高の次は、宇部中央高に赴任しました。
「教員採用され、宇部中央に5年いました。そこでは女子の指導がメインで、3年目くらいから男子も少し手伝っていましたね。宇部中央は近くに慶進高校と宇部商業高校という強豪があり、週に1回はどちらかのチームに行っていました。特に慶進の村谷勉先生は、連れていけばうちの生徒たちにもすごく丁寧に教えてくれるんです。その間、僕は慶進の子たちと1対1などをして遊んでいました(笑)」

 
――2012年から豊浦高に赴任しましたね。決まったときはどのように感じましたか?
「正直、最初は嫌でした。もともと自分のライバル校でしたし、伝統校なだけあって今までの監督は全員豊浦のOBだったんです。OBではない人間が初めて指導するとなれば反発もあるだろうし、自分のやりたいバスケットができないのではないかというイメージがあって…。でも、豊浦の生徒たちはやはり伝統校とあって目標の高い子たちばかりですし、練習も一生懸命に頑張る。それで自分も、責任を持って引き受けようと思いました」

 
――赴任1年目、前任の中村浩正コーチ(現徳山商工高)の息子である中村功平選手(茨城)、佐々木隆成選手(熊本)、石井悠太選手(日本無線)が入学しました。3ガードの構想は彼らが入学したときからあったのですか?
「もともとは中村と石井の2ガードで、佐々木はフォワードとして使おうと思っていました。でも佐々木のポテンシャルが思った以上に高くて、3人誰でもボールを運べる感じになり。それなら小さくても思い切って3ガードにするのが面白いかなということで、あの形になりました。2ガードも含めていろいろ勉強して、例えば昔の鶴鳴女子(現長崎女高)の山崎純男先生(元監督)が、名短(現桜花学園高)を倒すためにサイズをすごく小さくしてコートをかき回すバスケットをしていましたが、そういった戦い方を参考にしていました。
3ガードの3人には、ガードの動きやドライブの仕方など、時には別メニューでみっちり教え込みました。3人ともサイズは小さいですけれどダンクができるくらい能力が高かったので、彼らが思う目標よりもさらに高いところを目指して伸ばそうと思いながら3年間指導してきました」


――赴任2年目にはインターハイに出場しましたが、そのときを振り返っていかがでしたか?

※続きは『月刊バスケットボール10月号』へ!

 

(月刊バスケットボール)



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