月刊バスケットボール6月号

最新『月バス』3月号では白鴎大を率いる網野友雄コーチのフィロソフィーを紹介!

 1月25日発売の月刊バスケットボール3月号では、指導者インタビューの第42弾として、白鴎大を率いる網野友雄コーチが登場!

※オウの字が環境依存文字のためここでは『白鴎大学』と表記しています

 

 現役時代はトヨタ自動車(現A東京)、アイシン(現三河)、リンク栃木(現宇都宮)とトップリーグでプレーし、2003〜11年には日本代表としても活躍した網野コーチ。2015年に現役引退後は、「大学カテゴリーを盛り上げたい」と指導者の道へ。指導の上で「ハードワーク」「自分の頭で考えること」を大事にしながら、白鴎大を大学界上位に導く網野コーチのフィロソフィーとは――。(下記に一部抜粋)

 

 

指導の喜びを知って
現役引退を決意する

 

――2015年に現役を引退した網野コーチですが、指導者を志したのはいつ頃ですか?
「高校を卒業して大学に進学するときには『将来はプロバスケットボール選手になって、引退後は教員としてバスケットを教えたい』という夢が明確にありました。ただ、そのときは高校の先生になりたかったんです。 僕は高校でバスケットを始めて、恩返しの意味でもゆくゆくは母校(東海大菅生高)に戻ってバスケットを教えられたらいいなと。それで大学では高校の教員免許を取りましたし、できる限り現役を続けてその後は高校の先生になろうと思っていました。
ただ、プロ選手になってから毎年、オフに母校の高校と大学に行って後輩たちと一緒にバスケットをする機会を作っていたのですが、そのうちに日大が関東2部に降格して(2012年)、それがOBからしたらすごく寂しかったんです。当時の川島淳一監督(故人)にも世間話程度ですが『手伝ってくれないか』と言われ、現役でプレーしながら時間があるときに教えに行っていて。そのときの選手たちがすごく素直に自分の指導を聞き入れてくれて、成長していく姿を見ながら指導にやりがいを感じました。大学で教えるのもいいかもしれないと思い始めたのはその頃ですね。
それに正直、当時の大学カテゴリーって高校と比べるとまだまだ“ゆるい”というイメージがあったと思います。高校バスケは人気もあって練習もすごくしていてアジアでもそこそこの結果を出せるのに、大学に行った途端、知名度が落ちるし練習量も減るし、U22の国際大会でも結果を出せなくなる。それで、大学カテゴリーを強化して盛り上げていくことが日本のバスケットの未来のために必要ではないかと使命感を感じました。
ただ、現実的に大学バスケットの外部コーチとして食べていくのは、まだまだ厳しい環境で。大学で指導したいなら大学の教員にならなければいけないと思って、じゃあ大学院に行こうと。そこからいろいろ調べて、筑波大を受験して大学院に通い始めました」


――現役でプレーしながら大学院に通うというのは珍しい決断ですよね。
「珍しかったですね。ただ、当時はブレックスに在籍していてチームの理解もありましたし、栃木と茨城なら近いので何とかなるだろうと。あまり迷いはなかったです。午前中に筑波大で授業を受けて、午後は栃木に戻って練習。時間が空いたときは日大で指導、みたいなスケジュールで最初の1年間はやっていました。1年が終わる頃には、自分が選手としてプレーする喜びよりも学生を指導することの方に喜びを感じるようになっていて。それでブレックスに、『今シーズン(14−15シーズン)限りで引退します』と伝えました」


――日本大のヘッドコーチに就任したその年、15年にはチームを関東1部に復帰させました。17年からは白鴎大で指導されています。
「ヘッドコーチになって半年で1部に昇格して手応えも感じていて、自分の願いとしてはそのまま母校の指導を続けたかったのですが、大学の教員になるにはタイミングなどが合わなくて…。当時はボランティアだったので実生活とのバランスを見ても限界があるなと感じ、日大を離れることを決断しました。白鴎大は当時、バスケットの指導だけでなく教員として授業や生活指導もできる人材を探していたので、そこに自分がはまった形です。
ただ、決断するのに葛藤もありました。日大も白鴎大も同じ関東1部ですし、日大には自分がリクルートしてきた選手たちもまだ下級生にいて。しかも当時の白鴎大は落合嘉郎コーチ(現仙台アシスタントコーチ)の考えがチームに浸透して、1部に定着して結果が出始めた時期だったので、そこに自分が入るのが本当にいいことなのかと悩みました。でも、ありがたいことに大学側が自分を必要としてくれていたし、バスケットに力を入れている学校なので、自分がやりたい“大学世代を強化する”という環境がしっかりあるなと。ほかの関東1部の大学に比べれば北関東の田舎にある小さな大学ですが、ここで日本一になるとか、ここから良い選手が育つということになれば、自分がやっていることの一つの証明になるなと思って決断しました」

 

※続きは『月刊バスケットボール3月号』へ!

 

 

(月刊バスケットボール)



PICK UP