月刊バスケットボール5月号

“籠球群像”トップリーグ16年目の鉄人・桜井良太(北海道)

 

 1月25日より発売中の最新号、『月刊バスケットボール2021年3月号』の籠球群像 第34弾は、レバンガ北海道#11桜井良太のキャリアに迫る!!

 

 三重県出身の桜井はかつてWリーグのトヨタ紡織などでも活躍した姉もも子さんを追うようにバスケットを開始。もともとはJリーグ人気のあおりを受けてサッカーをやっていたというが、「(サッカーは)ものすごい人気だったので入りたての子はピッチで練習なんてさせてもらえなかったんです。で、『楽しくないな』って思っちゃってサッカーは3か月くらいでやめてしまった」と、しばらくはスポーツをしていなかったそうだ。

 

 しかし、姉の通っていたミニバスチームは「(男子が当時人数が少なくて)姉から『アンタもやったらすぐに試合に出られるよ』と言われたのがバスケットを始めたきっかけです」と桜井。サッカーをしていたときは練習すらできなかったのだから、その言葉は当時の桜井にとって一層、魅力的に感じられたのだろう。

 

 ただ、ミニバス時代も中学時代も自身のチームはそこまで強豪ではなかった。「女子は僕らの代で全国ベスト4になるくらい強いチームで、女子の練習相手として5対5をやっていました。まあ、当然勝てないんですけどね(笑)」と桜井は当時を振り返る。しかし、身近に強いチームがいたことで男子部もという思いが生まれ、最終的には県ベスト4入り。自身も急激に身長が伸びたことでジュニアオールスターにも選出され、それが結果として地元の強豪・四日市工高への進学につながった。

 

 高校で初めて全国の舞台に立った桜井だが、全国のレベルに圧倒されることもしばしば。「一番は体の強さですね。特に高校2年生のインターハイで対戦した沖縄県の北中城高は印象に残っています。バスケットのうまさどうこうよりもフィジカルコンタクトで圧倒されて、気持ちの面で負けてしまったような試合でした。総じてディフェンスの強度や走力という部分で圧倒されて負けてしまうことが多かったので、基礎的な部分でレベルの差はあった気がします」と桜井。ただ、そのずば抜けた身体能力は全国区でも群を抜いており、空中戦では十分に勝負することができた。

 

 ちなみに大学時代には助走ありで最高到達点355cmを記録したそうだ。

 

 高校時代の桜井を語る上で忘れられない試合が3年時のウインターカップだ。この大会では1回戦からいきなり洛南(京都)と対戦。この試合に勝利できたことだけでも当時の桜井にとっては大きな価値のあるものだったが、本当の見せ場は続く2回戦、その年のインターハイ王者・能代工との一戦で待っていた。「僕は引退試合のつもりで能代戦に臨んでいたんですけど、ただ負けるにしても一矢報いるというか『何か見せて最後の試合を締めくくりたい』と思っていました」と桜井が振り返ったこの試合で、彼はゾーンに入った。能代工を破る大番狂わせを起こしたばかりか、試合を通して51得点。

 

「正直、試合中のことはあんまり覚えていなくて、後になってスコアシートを見返してみたら51得点だったって感じです。無心でやっていた試合でしたし、ゾーンに入るというか、そういう感覚だったかもしれません。シュートが入るとか入らないとかそんなことは一切気にしていませんでしたが、とにかくずっと楽しかった記憶があります」

 

 のちに当時の映像が出回り、この試合の活躍とプレースタイルから“リアル流川”と呼ばれるようにもなった。

※『スラムダンク』のキャラクター流川楓

 

 その後、愛知学泉大を経てトヨタ自動車(現A東京)に入団し、日本代表入り。絵に描いたような順調なキャリアに思えたが…「当時のチームには折茂武彦さんや渡邉拓馬さん、齋藤豊さん(東京EX)、ポジションは違いますが高橋マイケルさんという日本代表クラスの選手がたくさんいました。それこそ12人中10人くらいが代表か元代表みたいなメンバーで、当時は僕も代表活動に参加させてもらっていたんですけど、代表活動には行くけどチームでは全然試合に出られないというもどかしい時間が続いていました。それがすごく恥ずかしくて、どうしたら試合に出られるかを考えたんです」と人知れぬ苦労があった。

 

 2年目には学生時代に担ってきたスコアラーの役割を180度覆すディフェンダーとしての役割を任され、一定のプレータイムを得ることができた中でリーグ制覇も成し遂げた。桜井は言う、「トップリーグに入ってくる選手って、それぞれが中学や高校からチームの中心だった選手たちだと思います。それこそ所属チームの点取り屋だったような選手の集まりなわけですが、いざトップリーグに入ったときに自分よりも得点スキルの高い選手もたくさんいるわけで、そうなったときにチームの中で何ができるのかと考える必要があります。それでも自分は点取り屋だと信じてやり続ける選手もいるだろうし、違う役割を見付けてチーム内での自分の居場所やプレータイムを勝ち取っていく選手もいます」

 

 ようやく軌道に乗りかけたタイミングだったが、それでもなおプレータイムを求めた桜井は移籍を決断。当時24歳、当然と言えば当然だろう。そこで移籍先に選んだのがレラカムイ北海道だった。あれから14年。チームは2011年にレバンガ北海道として生まれ変わり、桜井自身もトヨタ自動車時代から続いた636試合という連続試合出場記録を樹立。まだまだ現役としてB1のコートで戦っている。時代は移り変われど、選手としての闘志はまだまだ消えない。今号ではそんな桜井のキャリアを振り返る!

 

(月刊バスケットボール)



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