月刊バスケットボール8月号

最新『月バス』11月号では実践学園中(東京)を率いる森圭司コーチのフィロソフィーを紹介!

 9月25日発売の月刊バスケットボール11月号では、指導者インタビューの第38弾として、実践学園中(東京)を率いる森 圭司コーチが登場!

 

 同校のアシスタントコーチを経て、2012年に実践学園中監督に就任した森コーチ。翌13年の全中3位を皮切りに、14年に準優勝、15~16年に連覇、18年にも優勝と、輝かしい結果を残してきた。それでも「優勝できるかは運」と言い、それ以上に人生の土台となるような“経験”が大切と語る。幅広い活動を通して中学界を引っ張る森コーチのフィロソフィーとは――。(下記に一部抜粋)

 

 

学生時代に母校で指揮を執り

実感した指導のやりがい

 

――指導者になろうと思ったきっかけは何でしたか?

 高校3年生のとき、母校の中学校で指導を手伝ったことでした。僕は都立高校出身で、5月頃にインターハイ予選の都ベスト32で引退したのですが、「よし、受験勉強だ」とはすぐ切り替えられず…。放課後、毎日のように母校の中学に遊びに行き、後輩たちの練習に交ざって試合をしたり教えたりしていました。卒業生で年齢も近いので、みんな慕ってくれて。先生が会議などで練習に来られない日には僕がメインで教えるように言われたりして、気付けばアシスタントコーチの立場になっていました。

 僕の中学時代は地区ですぐ負けるチームでしたが、当時の3年生はいい選手がそろっていて、東京都で優勝したんです。それで初めて関東大会に出場して、僕も一緒に連れて行ってもらいましたが、ケガなどのアクシデントもあって全国には出られませんでした。

 それで2年生の代になり、彼らは1つ上の子たちのような能力も経験もなかったのですが、新人戦で豊島区3位に。それは彼らからしたらすごく頑張った結果で、そのときに子どもたちや保護者の方々からすごく感謝されたんです。『教えるのって楽しいな』『やりがいがあるな』と感じたのはその頃ですね。しかもその年を最後に母校の恩師が転勤になり、僕が引き継いで大学時代からはヘッドコーチになりました。

 ヘッドコーチになって2年目、僕が19歳のときに新人戦で都3位になり、その経験は大きかったです。みんなと喜びを分かち合う経験をし、コーチングの面白みというか、『指導者ってすごい職業だな』とさらに実感して、目指すようになりました。

 

――大学は東海大に進まれましたね。

 あまり深く考えずに受験したのですが、今思えば恵まれた環境でした。体育学部もあるので、図書館に指導書が膨大にあるんです。普通に買ってそろえようとしたら何十万円もかかると思いますが、図書館ならタダ。毎日読みふけりました。それに東海大はスポーツが強いので、普通にサークルでプレーしている友達にも中学時代に県選抜だった人や高校時代に全国に出た人がたくさんいました。彼らにどんな練習をしていたかを聞いて、参考にしましたね。

 当時指導していた母校の中学校は、同じブロックに京北中、女子の東京成徳中がいたのですが、全国レベルの目標が身近にいたことも恵まれていたと思います。一度、二ノ宮康平君(現越谷)が下級生のときに京北に勝てたことがあって、会場中が大騒ぎになって知らない人に握手までされました(笑)。東京成徳中の遠香周平先生(現高校監督)も会場で声をかけてくれて。僕が学生だったこともあり、周りの指導者の方々がいろいろとかわいがってくれました。

 
――卒業後は実践学園中に赴任しました。

 ご縁があって声をかけていただき、最初は非常勤講師、その後は専任教員になりました。しばらくはメインで指導する高瀬俊也先生(現同学園高校男子部コーチ)の下、アシスタントコーチを務めて。赴任して最初の数年は並行して母校の監督もしていましたが、両立が難しくなり、母校の指導を離れて実践学園だけになった形です。

 たまに高校の練習を手伝うこともあり、高瀬先生のみならず、高校女子を見ていた村松啓三先生(現同学園総監督)にも多くを教わりました。練習中の雰囲気を肌で感じたり、一緒に食事に行ってバスケ談義をしたり。村松先生は高校女子を全国3位に導いた指導者ですし、指導の中に長年築いてきた文化というか、ご自身の言葉があって、それは指導書をいくら読んでも学べない部分でした。そうしてアシスタントコーチ時代、高瀬先生や村松先生といった複数の指導者の方々から学べたことは、すごく貴重な財産だと思います。

 

※続きは『月刊バスケットボール10月号』へ!

 

(月刊バスケットボール)



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