月刊バスケットボール8月号

異色の経歴をたどってきた飛龍高・原田裕作コーチのフィロソフィーを紹介!

 7月22日発売の月刊バスケットボール9月号では、指導者インタビューの第36弾として、飛龍高(静岡)を率いる原田裕作コーチが登場!

 

 福岡第一高で全国ベスト16、東海大でインカレ優勝を経験した原田コーチは、卒業後、単身アメリカに渡ってCSULA(カリフォルニア州大ロサンゼルス校)でコーチングを学び、帰国後はレノヴァ鹿児島(現鹿児島レブナイズ)でアシスタントコーチを経験するなど、異色の経歴をたどって飛龍高の教員に。小さくても力強いチームを築き、2014年にインターハイに出場して以降、全国でも爪痕を残している。「準備が大事」と語る原田コーチのフィロソフィーとは――。(下記に一部抜粋)

 

 

 

今につながる
高校・大学での学び

 

――原田先生は福岡第一高出身ですが、どんな高校時代でしたか?
今でこそ福岡第一といえば名門という印象があると思いますが、僕がいた頃はそんなに有名な選手がいるわけではなく、サイズも小さくて。平面で勝負するしかないので、とにかく練習はハードでしたね。2年生のときに県2位でインターハイに出て、僕自身もそこで少し活躍し、それ以降は主力で試合に出させてもらいました。それで3年生のとき、僕がスタメンで1、2番目に背が大きかったんですが、PGにコンバートしたんです。井手口先生に怒られながらもいろいろバスケットを教えてもらって、あの時期は今の自分の原点になっています。センターの選手で182㎝くらいの小さいチームでしたが、その当時の最高成績である全国ベスト16に入って、『小さくても戦えるんだ』と学びましたね。
何より高校では、“バスケットの厳しさの中にある楽しさ”を教えてもらったと思います。 楽しいだけではなくて、厳しさの中から楽しさを生み出していくことを学びました。


――その後、当時関東2部の東海大に進みました。ちょうど東海大が強化に力を入れ始めた時期でしたね。
僕らの学年が、陸さん(陸川章監督)が初めてリクルートした代です。福岡第一でも東海でも、ちょうど“これからチームが強くなる”という時期でしたね。毎年チームがどんどん良くなる時期にチームに関われたことは貴重な経験になりました。陸さんも選手にいろいろ「どう思う?」と聞いてくれる指導者だったので、みんなで話し合いながら、チームビルディングを一緒にやっていく感じでした。


――4年生のときにはインカレで優勝しました。
1個下に石崎巧(琉球)や竹内譲次(A東京)といったゴールデン世代が入って、試合にあまり出られず苦しい時期もありましたが、4年生になる頃には自分が試合に出たい気持ちよりも『チームが優勝できれば何でもいい』という心境でした。1個下の代、特に石崎がそうですが、一番いい選手なのに一番努力するんです。そういう姿を見て僕自身も『腐らないで頑張ろう』と思えたし、1個上の代も同期もみんな努力する人たちでした。同期でAチームに入ったのは僕と西堂雅彦(鹿児島高監督)と池田雄一(新潟)だけでしたが、Bチームも仲が良くてみんなサポートしてくれて。そういうチームメイトに囲まれていたので、とにかく『このチームで優勝したい』というのが一番でした。


――陸川監督から学んだことは?
一番は、人とのつながりを大事にして感謝することです。横のつながり、縦のつながりを大切にすることはもちろん、応援してくれる OB 、ファンの方に感謝しようと。「そういう人たちがいて初めて僕らはバスケットができるんだ」と常に言われていました。陸さん自身がそれを実践している方で、僕も人間的にいろいろ学ばせてもらいました。


――指導者を目指そうと思ったのはいつ頃ですか?

 

※続きは『月刊バスケットボール9月号』へ!

http://shop.nbp.ne.jp/shopdetail/000000001587/

 

(月刊バスケットボール)



PICK UP