月刊バスケットボール5月号

赴任3年目で部員が4人に…精華女高(福岡)を強豪に築き上げた大上コーチのフィロソフィーを紹介

 4月25日発売の月刊バスケットボール6月号では、指導者インタビューの第33弾として、精華女高を率いる大上晴司コーチが登場!

 

 トランジションバスケットに磨きをかけ、群雄割拠の福岡でも屈指の強さを誇る精華女高。 だが大上コーチが赴任した当初はトラブルも多く、一時は部員が4人にまで減ってしまったという。 そんなどん底からはい上がり、現在の精華女高を築き上げた、大上コーチの知られざるフィロソフィーとは――。(下記に一部抜粋)

 

 

 

“無職”の状態から高校教諭へ

苦しみを経て部員4人で再出発

 

――指導者になろうと思ったのはいつ頃ですか?

 父が中学校の教員をしながらバスケットを指導していた影響で、小学生の頃から漠然と将来は先生になってバスケットを教えたいな、と思っていました。いつからか、指導者になって父のチームと対戦したいと考えるようになりました。

 

――日体大に進んだのも、教員を目指していたからですか?

 そうですね。父も日体大だったので、自然と。ただ、僕は中高と全くキャリアがなく、特に高校時代は真面目にバスケットに打ち込んでいませんでした。でも日体大には全国区のすごい選手が大勢いて、そういう人たちに対してすごく引け目を感じました。出身が福岡だと言えば、「(福岡大附)大濠か?」なんて聞かれるのですが、恥ずかしくて母校が言えなかった。だからこそ、精華の生徒たちには胸を張って母校を語れる高校生活を送ってほしいと思っています。

 

――なぜ精華女高の教員に?

 紆余曲折ありました。もともと他県の高校に赴任が決まっていたのですが、卒業間近に急に話が流れてしまって…。途方に暮れましたね。それで就職するしかないと大学の就職課に行って、棚のファイルを見てパッと目に付いたのがスポーツ用品店の会社。これだと思って電話して、幸い入社できました。でも、やはりバスケを教えたいという夢が捨てられず、結局1年で退職して福岡に戻り、そこから4、5年は中学の講師をしていました。

 

――最初は中学だったのですね。

 僕が福岡に戻ったその年、父が中学の教職を退き、結局、父のチームと対戦する夢はかなわなかったんです。でも昔から父がよく「いつか全国大会に行くぞ」と言っていたので、それなら僕が中学の教員になって全国に出ようと。それが新たな目標になりました。ただ、中学の講師と言っても短期の非常勤などで、その契約が切れて無職の状態になってしまいました。毎日むなしかったですね。このままではだめだと、地元の小学校に「ミニバスのコーチをやらせてください」とお願いし、毎日夕方から小学生を教えていました。そんなとき、精華で前任の監督が退職し、バスケを教えられる人を探していると。それで僕が高校時代にお世話になった先生が、推薦してくれたんです。1996年、僕が28歳のときでした。本当に人とのご縁には感謝です。

 

――赴任していかがでしたか?

 当時の精華は、過去に3回ほどインターハイにも出ているチームでしたが、前任の先生の退職に伴い、代わりに来たのがどこの馬の骨かも分からない僕でした。当然、選手からすれば「誰だ、こいつ」という感じです。僕がこういう練習をやるぞと言えば失笑されるし、挨拶を無視する生徒もいました。体育館の壁に落書きされていたこともあります。それでバスケ以前にやるべきことがあるなと、挨拶など生活態度の指導から始めたんです。反発はすごくありました。辞めたり転校したりする選手もいて、中学にもうわさが広まって誰も来なくなり、赴任3年目には部員が4人になりました。

 

――大変なスタートでしたね。

 4人では練習できないので、毎週土日は中学校回りです。練習に混ぜてもらったり試合をしたりしましたが、中学生にも勝てませんでした。1部、2部とあって、僕らは3部、しかもそこで1回戦すら勝てないチームでしたね。そんなとき、学校側と「3年以内に県大会、もしくは5年以内に全国大会に出られれば、部を強化する。ただしどちらもできなければ強化しない」という約束をしたんです。

 

※続きは『月刊バスケットボール6月号』へ!

 

(月刊バスケットボール)



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