月刊バスケットボール8月号

”沖縄のバスケット”で全国に挑む豊見城高の嘉陽コーチのフィロソフィーを紹介

 6月25日発売の月刊バスケットボール8月号では、指導者インタビューの第35弾として、豊見城高(沖縄)を率いる嘉陽宗紀コーチが登場!

 

 前任の糸満高や小禄高で8回、現在の豊見城高で3回の 全国出場を誇る嘉陽コーチ。 「沖縄らしいバスケットの追求」をテーマに、 全員がオールラウンドにプレーする好チームを毎年築き上げている。 「思いやりが大切」と語る、嘉陽コーチのフィロソフィーとは――。 (下記に一部抜粋)

 

コーチの道を志し

大学時代から指導に携わる

 

――指導者の道を意識し始めたのはいつ頃ですか?

中学生の頃です。中1の途中でバスケ部に入ったのですが、当時の顧問の先生が、いわばトリッキーなバスケットを追求している先生でした。セオリーどおりというより、ちょっと変わった奇策を練って戦うような。僕自身も、そうやって相手を出し抜くのが楽しくて、その頃から将来は指導者になりたいなと思っていました。 その思いは、高校生になってなおさら強くなりました。僕は中学、高校時代、NBAやトップ選手のプレーをほぼ見たことがなく、自分の頭の中のイマジネーションだけでプレーしていたんです。ただ、逆に正解や常識を知らないからこそ、「こういうチームがあったら面白いな」「こんなプレーもありではないか」と自由に発想して楽しんでいて、そういう考えをいつか自分が先生になって実現したいと考えていました。

 

――豊見城南高では、“辺土名旋風”(1978年のインターハイで全国3位入賞)でも有名な安里幸男先生の下でプレーしましたね。

 中学3年生のとき、安里先生がたまたま僕の地元の豊見城南に赴任しました。先生が来る前は地区でも1、2回戦で負けるような弱小チームでしたが、「打倒 能代工業」と書かれた紙を教官室に貼って、改革していったのがその頃。練習はとにかくハードでしたし、規則や規律も厳しかったです。3年間全国には出られませんでしたが、振り返れば、中学でのトリッキーなバスケットと、高校での基礎基本を徹底するバスケット、両方学べたのは貴重な経験でした。

 

――その後、沖縄国際大に進学して、在学中から母校の指導に携わってきたそうですね。

 大学3年生のとき、安里先生が豊見城南から北谷に転勤になりました。それで教育実習があったこともあり、大学で選手をやりながら、豊見城南で外部コーチをすることになって。このとき九州大会でベスト4に入り、いい勉強をさせてもらいました。また、4年生になってキャプテンになり、大学でも自分で練習メニューを考えていました。卒業後は採用試験の勉強をする合間に大学の女子を教えて、インカレに出たのも貴重な経験でしたね。それで卒業の翌年に採用試験に受かり教員になれました。

 

――新任校ではいかがでしたか?

 最初に赴任した南部商業では女子を見ることになりました。夏で3年生が引退したら部員が7、8人になってしまい、とにかく練習試合を組みましたね。弱小校ですから、強豪校1チームだけでは来てくれない。だからさらに別の強豪校をうちに呼んで、2チームの練習試合の合間に僕らも胸を借りていました。その効果は大きかったです。普段から当たり前に強豪校を相手にしてきたので、どこと対戦しても引け目なく戦えました。赴任3年目に部員7人で県ベスト8に入り、それは僕の中で今でも支えになっています。というのも、恩師の安里先生から「3年でベスト8に入れなければ指導者の素質はない」と言われていたんです。今、安里先生には「そんなこと言ったか?」と言われますが(笑)、3年目に結果を出せてうれしかったです。

――その後、伊良部高に赴任した後、糸満高に移りました。

※続きは『月刊バスケットボール8月号』へ!

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(月刊バスケットボール)



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