月刊バスケットボール6月号

今週の逸足『Asics Tiger GEL-PTG』

 バスケットボールの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回は、1983年に発売されたバスケットボールシューズ『ファブレ ポイントゲッター』をベースにし、ライフスタイルシューズとして生まれ変わったこの『Asics Tiger GEL-PTG』を取り上げる。ナイキの創業者フィル・ナイトとオニツカとのストーリーを踏まえて紹介しよう。   文=岸田 林 Text by Rin Kishida 写真=山岡 邦彦 Photo by Kunihiko Yamaoka  

   バスケットボールの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回は、1983年に発売されたバスケットボールシューズ『ファブレ ポイントゲッター』をベースにし、ライフスタイルシューズとして生まれ変わったこの『Asics Tiger GEL-PTG』を取り上げる。ナイキの創業者フィル・ナイトとオニツカとのストーリーを踏まえて紹介しよう。    ナイキの創業者のフィル・ナイトが、自社の創業期を回顧した著書『SHOE DOG』(東洋経済新報社)が話題だ。意外なことに、この本にはエアジョーダンも、エアマックスも出てこない。代わりに登場するのは、リンバーアップ、コルセアといった、60~70年代のオニツカ(現アシックス)のシューズと、オニツカ創業者の鬼塚喜八郎はじめとした多くの日本人ビジネスマンたちだ。ナイキはもともとオニツカシューズの輸入販売代理店としてスタートした会社であることは知られた話。自らも陸上選手だったナイトは、日本の高品質なスポーツシューズを米国で販売すれば、価格の高いアディダスを駆逐できるという野心を抱き、日本を訪れた。だがこの著書でナイトは、62年にオニツカ社を初訪問した際にはまだ正式に会社を設立しておらず、「ブルーリボンスポーツ(BRS)」という社名すら、その場でとっさに思いついたものであったことを赤裸々に明かしている。  
 やがてナイトのBRSとオニツカは、米国でのビジネスを巡って対立。代理店契約の有効性とランニングシューズ コルテッツなどの商標を巡り、裁判で争うことになる。『SHOE DOG』ではオニツカとのギリギリのせめぎあいがナイトの視点から克明に描かれているが、あえて鬼塚の著者から引用すれば、経緯はこうだ。   「もっと拡販してもらおうとブ社(BRS)販売会社設立の計画を進めていたところ、日本の商社の勧誘で他のメーカーからの仕入れに切り替えてしまった。驚いた私はすぐに別の販売店と契約したが、日本の商習慣になじまないそのドライな行動に裏切られた気がしたものだ(「私の履歴書」日本経済新聞社)」    こうしてBRSは自社のブランド『ナイキ』のシューズを日本やアジアの工場で製造し、地元ポートランドのNBA選手に自社ブランドのバッシュ(ブレイザー)を提供し始める。オニツカもまたシカゴに駐在員事務所を設置。72年、ファブレのPRのためにボストン・セルティックスのスター選手デイブ・コーウェンスと契約したのは、オニツカ自力でアメリカ市場に開拓を始めるという決意表明でもあった。BRS側の弁護士の活躍もあり、裁判はBRSに有利な条件で和解が成立した。オニツカが支払った和解費用は弁護士代を含めて1億円千万円に上った。鬼塚ものちに「海外展開するうえでいい経験だったとはいえ、高い授業料を払わされた(「私の履歴書」)」と振り返っている。  
 その後オニツカ(アシックス)はファブレの改良を重ね、82年に名品『ファブレ ジャパン L(以下ジャパン)』が完成。翌83年には、より足になじみのよいカンガルーレザーを使用した競技用モデル『ファブレ ポイントゲッター L(以下ポイントゲッター)』を投入した。平均的なクラリーノ素材のバッシュの価格が1万円前後だった当時にあって、『ジャパン』は1万7,800円、『ポイントゲッター』が2万6,000円という破格の高級モデル。以降この2モデルは、ほぼ30年間に渡り日本のコートに君臨し、トップレベルの選手の“アイコン”であり続けた。日本代表選手はもちろん、90年代の能代工高や、漫画『スラムダンク』に登場する三井寿、山王工業のイメージを重ねる読者も多いことだろう。    一方、『ポイントゲッター』が発売された83年、ジョギングブームに乗って飛躍的な成長を遂げてきたナイキは曲がり角を迎えていた。84年2月に発表した四半期決算では初の赤字を計上。増えすぎた契約選手のリストラを進めると同時に、ブランドを一段上のレベルに成長させてくれる1人のスーパースターを探しはじめる。ナイトが目を付けたのが、ロス五輪で活躍したマイケル・ジョーダン(元ブルズ)だった。  
 翌85年に発売されたジョーダンのシグニチャーモデルの製造には、ナイキが培ってきたアジアのサプライチェーンがフル活用された。米国内で製造されたエアバッグは、いったん日本の工場でアッパーと縫合され、エアジョーダンとして米国に出荷された。スポーツマーケティング史上に残るジョーダンとナイキの契約をまとめたのは、オニツカとの係争での活躍が認められ、ナイトに誘われてナイキに入社していた弁護士のロブ・ストラッサ―だった。   「資本の力、技術の力、人材の力、そして経営者の力が限られている中小企業は、その限られた力を一点に集中投下し、いわば錐でもむようにして一点突破をはからなければならない。(中略)創業以来、オニツカのたどってきた道は、まさにこの“錐モミ経営”であった。まずバスケットシューズ1本に力を集中し、これで日本一を目指した。次いでバレーボールシューズ、トレーニングシューズ…と、一つひとつ錐で揉むようにして地歩を固めてきた(原文ママ)」    鬼塚は自著『私心がないから皆が活きる』(1987年、日本実業出版社)の中でこう語っている。まずトップレベルの選手の信頼を勝ちとり、その効果を一般選手層にも広げてゆく鬼塚の“頂上作戦”は、のちのナイキとエアジョーダンの関係にも通じるものがある。両者の立場は異なれど、ベンチャースピリットあふれる経営者の姿勢が、結果として日米の2つの名作キックスを産んだと言えるのではないだろうか。     月刊バスケットボール2018年2月号掲載 ◇一足は手に入れたい! プレミアムシューズ100選http://shop.nbp.ne.jp/smartphone/detail.html?id=000000000593     (月刊バスケットボール)


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