月刊バスケットボール5月号

今週の逸足(CLASSIC KICKS)Vol.1-2

  Vol.1 Adidas SUPERSTAR アディダス スーパースター   文=岸田 林   (つづき) そうしてジャバーが活躍していた70年代、金銭契約の有無にかかわらず、アディダスを着用していたNBA選手は最盛期では7割にものぼる。NBAのロゴマークのモデルとなったレイカーズの名選手、ジェリー・ウエストは1972年、スーパーグリップを着用し、NBA史上3人目(当時)となる25,000得点を記録。また『ドクターJ』として知られ、長くコンバースの広告塔を務めたジュリアス・アービングも、プロ入り直後はプロモデルやスーパースターを着用している。さらに、あのマイケル・ジョーダン(元ブルズほか)もプロ入り前に、高校時代に愛用していたアディダスとの契約を熱望していたのは有名なエピソードだ。   一方、国際試合でスーパースターが知られるようになったのは、決勝戦の「残り3秒」の判定をめぐって米国とソ連(現在のロシアなど)に遺恨が生まれた1972年のミュンヘン・オリンピックから。米国代表がコンバース・オールスターでプレーしたのに対し、ソ連代表はスーパースターを着用。おりしも東西冷戦の真っただ中で、この頃、アディダスは資金に乏しい発展途上国、特に東欧のスポーツ協会に対して、自社製の高級スポーツ用品をタダで提供しスポーツ界での影響力を高めていた。そうしたこともあってか、同大会に出場したチェコスロバキア、キューバ、ユーゴスラビアといった国の選手もスーパースターを履いている。そして、このころを境に、アディダスのコート上での存在感は急速に高まっていく。対照的にコンバース・オールスターは1973年を最後にNBAファイナルから姿を消し、1976年のモントリオール・オリンピックでは米国代表もスーパースターを選んでいる。   その後80年代に入り、競技用シューズとしての役目をほぼ終えていたスーパースターに大きな転機が訪れる。1984年、ニューヨーク出身のヒップホップグループRUN DMCが、カンゴールのハットにアディダスのセットアップジャージー、そして靴ひもを外したスーパースターという独特のスタイルでストリートの脚光を浴びはじめる。そして彼らが大好きなブランドのために勝手に歌った『マイ・アディダス』は大ヒット。セール品だったスーパースターが突如、飛ぶように売れ始めた。   当初アディダスは、ギャングのような恰好のミュージシャンが自分たちのブランドを利用していると訴訟すら検討したが、ライブに招待され、彼らの人気ぶりを思い知らせると態度を一変。1988年、RUN DMC モデルのウルトラスターを発売するに至る。こうして、数々の名勝負を支えた高級バッシュは、オールドスクールヒップホップを象徴するスニーカーへと変貌を遂げたのだ。   その誕生から46年。スーパースターは現在では毎シーズンのようにミュージシャンやセレクトショップ、アーティストとのコラボモデルが発売される人気スニーカーとなり、全世界での販売足数は2015年の1年だけで1,500万足にのぼるという。だがその源流には、いまでも多くの選手のプレーを支えた革新的なバッシュとしてのプライドが宿っている。 (おわり)   写真=中川和泉 (月刊バスケットボール2017年1月号掲載)

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