月刊バスケットボール6月号

Bリーグ

2022.03.11

11年目の3.11に寄せて - 与那嶺 翼(琉球ゴールデンキングスU18 HC)

 2022年3月11日で、東日本大震災から11年の月日がたったことになる。あの年に生まれた赤ちゃんたちは11歳。あの年に小学校に上がった子どもたちは17歳。その間にバスケットボールの世界では、国内で分裂していたリーグの統一がなされBリーグが誕生し、日本人NBAプレーヤーが2人も活躍するあらたな時代に突入した。

 

 プロリーグの繁栄は、将来を担う多くの子どもたちと若者たちにバスケットボールの魅力を強くアピールしている。それとともに、その世界で輝くことを夢見る次世代の背中を後押しする環境がそろってきた。元琉球ゴールデンキングスのプレーヤーで、現在同クラブのU18チームのヘッドコーチを務める与那嶺 翼は、まさしくその環境に身を置く責任ある立場だ。

 

©RYUKYU GOLDEN KINGS

 

 甚大な被害を受けた宮城県から沖縄にやってきた志村雄彦との関係や、一時所属した岩手ビッグブルズでのキャリアなど、被災地・被災者とも深い縁がある与那嶺は、さまざまな出会いの中でつむいできたバスケットボール人生で得た経験を、次世代に語り継ごうとしている。

 

 

――自分に何ができるのかわからなかった


東日本大震災が起き、bjリーグが中断して選手間でもどうしたら良いのか、何ができるのかわからない状況が続いていました。キングスとして本当に微力だったとは思いますが、ショッピングモールでの募金活動を行い、心の底から募金の協力へ声かけしたこと、本当にそれくらいしかできなかったことを覚えています。
その後、島根(スサノオマジック)とのアウェー戦でリーグ戦が再開し、「この状況で自分達は本当にバスケットボールをしていて良いのか」という不安を抱えながらロッカーからコートに出ました。そこには会場を埋め尽くす超満員のお客様がいて、こういう状況でもこれだけの方が見にきてくれているということ、それこそが自分達の存在意義でもあるし、来てくださった方に何か届けたいということを強く意識してプレーしたことを今でも鮮明に覚えています。
試合自体は1勝1敗でしたが、結果以上にバスケットボールをできたことに本当に感謝しました。そして、強い気持ちを持ってプレーすることが、活力や希望を届けることができるプロ選手としての唯一の手段だと、チーム全員が共通の意識を持って戦っていました。
全力でバスケットボールをプレーすること、そしてコート上で絶対に気を抜いたプレーをしない、そういう思いをこのときに強く誓いました。少しでも多くの方に元気を届けるんだ、という意志で現役中はコートに立ち続けました。

 

――志村雄彦(株式会社仙台89ERS)について


特別措置で仙台(89ERS)から志村選手が加入し、個人的に憧れの存在でもあった志村さんと一緒にプレーして学ぶべきことが多くありました。同じポジションでしたし意識する部分もありましたが、リーダーシップという部分は彼に教えてもらったと今でも感じています。彼も仙台から加入して、計り知れないほどの様々な思いを胸の内に秘めプレーしていたと思います。
ただ、彼の口から出てくるのはマイナスな言葉ではなく「東北を元気にしたい」という言葉で、そういう姿勢が本当に人として尊敬していますし、キングスの選手たちの東北や被災地に対しての意識が大きく変化したのは彼の言動のおかげだっと思います。

 

©RYUKYU GOLDEN KINGS

 

 

―――岩手ビッグブルズでの経験


2013年から2015年までの2シーズンを岩手ビッグブルズでプレーしていましたが、被災地に訪れたり被災に遭われた方の話を聞いたりして、「バスケットボールができること、生きることは当たり前じゃない」ということに本当に気づかされました。当時の岩手は桶谷ヘッドコーチ(現琉球ゴールデンキングスHC」の桶谷 大氏)が指揮を執っていて、「自分たちができること、伝えていけることを全力でやろう」と常々口にしてチームに浸透させていました。
沖縄に帰ってきた今でも何事も当たり前じゃないという考えは残っていますし、その瞬間を全力で過ごせるように意識しています。

 

―――岩手での出会い


個人的な話になりますが、岩手時代に暮らしていたアパートの住人の方と知り合う機会がありました。その方も被災に遭われ、家族と父親と一緒に沿岸の大槌町から内陸の盛岡市に移り住んでいる状況でした。挨拶や会話をしていくなかで岩手ビッグブルズのプレーヤーということを伝えると、その方はチーム名すら知らなかったようで、そのきっかけで一度見にきていただきました。
その試合後に彼から「ここには明日への活力が溢れている」と伝えられたことを覚えています。そこからしだいに週末は会場でお会いすることも増え、いつの間にかホームゲームの冠スポンサーとして、気がつけば岩手ビッグブルズの取締役となっていました。それが今の取締役でもある三浦 崇さんとの出会いでした。
三浦さんとの出会いもスポーツの力で繋がった縁だと思いますし、これがプロバスケットボール選手としてプレーし続ける存在意義だと感じました。三浦さんの「この活力が溢れている場所をより多くの人に知ってもらい元気になってもらう」という思いから冠スポンサーを始めた姿勢は、尊敬と共に本当に素晴らしい人だと感じています。今でも交流がある方々のうちの1人です。

 

©RYUKYU GOLDEN KINGS

 

――今、子どもたちを指導する側となって

 

 この時期になると毎年いろいろ考えさせられます。コーチとして在籍したのも併せ3年岩手に住んでいましたが、ほんの少しだけ知っているだけ。ただ、他の人よりは岩手のことを知っていること、考えた時間が長いと思っています。だからこそ、この経験を子どもたちに伝えていくことが我々大人の役目だと感じています。
スクールの子どもたちにはすべての学年ではないですが、震災があったことや自分が岩手で活動していたこと、当時の状況を可能な限り伝えるようにしています。その上で、「みんなが今バスケットボールをできていることは当たり前じゃないんだよ」ということを毎年伝えるようにしています。
バスケットボール以外のことも伝えられるような考えになれたのも、岩手で生活して現地の方の声を聞いて、被災地を見てきたからこそだと思いますし、それを伝えていく責任が私にはあると思っています。

 

 

11年目の3.11に寄せて - 桶谷 大(琉球ゴールデンキングスHC)

 

(月刊バスケットボール)



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