志田 萌(ニューメキシコ州立大学) - 旭川出身NCAA D1ボーラーのマンバメンタリティー-1
北海道旭川市出身の若者、志田 萌がNCAAディビジョン1のニューメキシコ州立大学(以下NMSU)入り――この快挙の知らせとともに彼女の名を初めて耳にしたのは2020年の秋だった。アギーズ(Aggies)のニックネームで親しまれているNMSUで、志田は今シーズン、小さな頃から夢に見た本場アメリカのカレッジバスケットボールという舞台でのキャリアをスタートさせている。
ニューメキシコ州立大学での公式戦での志田の勇姿
(写真/©New Mexico State Aggies Athletics)
旭川南高校卒業後の2019年に渡米した志田は、留学の最初のステップとしてフロリダ州にあるIMGアカデミーに進んだ。そこで4ヵ月間トレーニングを積んだ後、サウスジョージア・テクニカルカレッジ(以下SGTC)という2年生の短大でプレーしているときにNMSUのコーチングスタッフの目に留まり、2年目のシーズン開幕前にスカラシップのオファーを受けることとなった。
SGTCは、ボーリンググリーン州立大学で昨シーズンまで2年間活躍したヒル真理、サウスカロライナ大学エイキン校(NCAAディビジョン2)でプレーした鈴木神乃ら、過去に日本人の有能なプレーヤーを輩出した実績がある短大だ。NMSUのブルック・アトキンソンHCによれば、同大のアシスタントを務めるスタッフが以前からSGTCのジェームズ・フレイHCと良い関係を構築していたという。
志田にとってSGTCでの最初のシーズンだった2019-20シーズンは、チームとしては30勝2敗の好成績だったが、個人的には実績としてアピールできる数字はなかった。それでも志田は、両チームの信頼関係の中で価値を感じさせるだけのポテンシャルを、ワークアウトで示したのだ。
入学・転入の誓約書にあたるNLI(National Letter of Intent)と呼ばれる書面にサインし、NMSU入りを発表した後の2020-21シーズンには、意欲の高まりが実力と成績に表れた。スターティングガードとしてチームを22勝4敗の成績とNJCAAトーナメント出場に導い志田は、平均28.2分出場して11.7得点、3.4リバウンド、4.2アシスト、1.9スティールのアベレージを残し、NJCAAのオールアメリカン・セカンドチームに選出されている。
晴れてNMSUの一員となった志田に、今シーズン開幕から間もない11月末にインタビューすることができた。
朗らかな笑顔で対応した志田はバスケットボールが大好き、ただそれだけの思いで海を渡ったことを振り返ってくれた。敬愛しているプレーヤーは、一昨年の1月26日に不慮のヘリコプター事故で命を落としたコービー・ブライアント。自分が無名であることなど関係ない。世界の壁は、何もしないで眺めているときに思っているほど高くはない。すべては自分しだい。彼女の言葉には、バスケットボールへの愛情と高い挑戦意欲——マンバメンタリティー――があふれていた。
ズームインタビューでの志田は、朗らかな笑顔で対応してくれた
NBAをきっかけにバスケットボールにほれ込んだ
――留学を考えた動機やきっかけはどんなことだったのですか?
ちっちゃい頃からアメリカのバスケットボールにあこがれていて、ずっと本場アメリカで学びたいと思っていました。父が地元で少年団を教えていて、姉もプレーしていたのですが、そんなにバスケ家族という感じではなく、勧められたのでもなく、単純に私がバスケットを好きになりました。
NBAがきっかけですね。“NBA”という言葉で検索してYouTubeで慣れない英語を聞きながら見ていました。よく、珍しいねといわれます。
――実際にアメリカのバスケットボールを体験して、どんな感想を持ちましたか?
最初来たときは、「デカ!」という…(笑) とにかくデカい印象でしたやっぱり身体能力も高いし想像していたよりも腕が長かったり。だけど、そういう相手でも自分ができるという手応えはありました。
――全国的に知られた存在ではなかった高校時代に留学を決心して、準備するのはご苦労も多かったと思います。
苦労といえば言葉の壁が一番で、自分の思っていることを伝えられないっていうのは、人間にとってたぶん大きなストレスになるんだと思います。伝えたいのに伝えられないし、逆に相手の言っていることもわからないし…。
最初は英語力ゼロで、バスケがしたいという気持ちだけでした。英語を勉強したわけでもないし、しゃべれないので最初は猫をかぶっていたというか、わからなくても「うん、うん」と答えたりして本当の自分でいられなかったのがつらかったですね。バスケットボールも大変でしたが、そこが一番つらかったと感じます。
――IMGアカデミーで慣れていった感じですか?
いえ、IMGには4ヵ月しかいなかったので、そこで英語を習得したという感覚もあまりないんです。次の2年制大学(サウスジョージア・テクニカルカレッジ=以下SGTC)で英語に慣れていったかなという感じですね。
――NMSUの方々との接触はどんな形で始まったのですか?
SGTCのコーチ(ジェームズ・フレイHC)が今のコーチ陣と面識があって、最後のシーズンに私のことを紹介してくれたことをきっかけに興味を持ってもらえました。その後、コロナがひどかったために大学のコーチの前でプレーするショウケースもできなかった中で、YouTubeで公開練習をライブ配信するイベントがあり、NMSUのコーチ陣がその様子を見てくれたんです。
SGTCでの1年目は結果を残せたわけでもなかったのですが、練習の様子を見てコーチが私のことを信じてくれました。成績は2年生になってついてきた感じです。
――その間に英語の自信もついてきたということですか?
初めて渡米した頃に比べたら、その当時はだいぶ聞けるようになっていましたし、完ぺきではなくても自分の言いたいことを言えるようにはなっていましたね。
「えっ、オファーもらったってこと!?」
――転入のオファーをもらって、どんな気持ちでしたか?
オファーをもらった瞬間というのが、公開練習を終わってすぐだったんです。すぐにコーチのオフィスに呼ばれて、そこに電話がかかってきて直接オファーをいただきました。もう「信じられない!」ですよね!! 「えっ! オファーをもらたってこと!?」と不思議な感覚になりました(笑) 「やったー!!」という気持ちはあとからきましたが、そのときは「本当に自分がオファーをもらったの!?」という感覚でしたね。
――皆さん喜ばれたでしょうね! 私は知人のコーチから志田選手の名前を聞いたのですが、日本でも一部でこんな選手がいたのかと話題になっていましたよ
コーチも喜んでくれて、すぐに家族に伝えたらすごく喜んでくれました。私は日本では無名で、成績を残していたわけでもないのですが、少しでも知ってもらえているというのはうれしいですね!
――そんな感慨に包まれた後、モティベーションも高まったと思うのですが、ディビジョン1に入る前にはどんな準備をしてきたのでしょうか?
オファーをもらったのが2年目のシーズン開幕前だったので、あまり意識しないようにして、まずは自分のチームで全米1位を取るという目標に集中しました。でもD1からオファーをもらったということはアメリカではすごいことで、ほかのチームのコーチや周りの人たちも「え、もらったの! すごいね、おめでとう!」ということを言ってくれるので、自分としても責任があります。D1に値するプレーヤーとしてだらしない試合をしないように、プレー中の態度なども気をつけてシーズンを過ごしました。
その後のオフには気持ちを切り替えて、D1で何が必要なのかを考えてワークアウトしましたね。アシスタントコーチと一緒にもやりましたし、YouTubeで調べていろんなスキルを学んで、真似て練習していました。
――そのワークアウトの手応えは感じていますか?
自分ではあまり感じないんですけど、日本に帰って父に「スピードが上がったね」「プレーがブレなくなったね」と言ってもらったり、周りからの評価を聞くと自分が成長しているんだなと感じます。
取材・文/柴田 健(月バス.com)
(月刊バスケットボール)