月刊バスケットボール5月号

今週の逸足『ADIDAS CAMPUS』

 バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回は、1968年に発売されたバスケットボールシューズ『ブラックスター』が原型の『キャンパス』を取り上げる。   文=岸田 林 Text by Rin Kishida 写真=山岡 邦彦 Photo by Kunihiko Yamaoka  

   バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回は、1968年に発売されたバスケットボールシューズ『ブラックスター』が原型の『キャンパス』を取り上げる。   「ボストン・セルティックスとは単なるチームではない、それは生き方そのものだ」 とは、セルティックスの名将レッド・アワーバックの言葉だ。1950~60年代にかけてヘッドコーチ、GMとしてチームを実に16回の優勝に導いたそのコーチ訓は、現代でも示唆に富むものが多い。    彼がセルティックスに残したもののひとつが「黒いシューズ」だ。スター選手でも1足のシューズで何試合もプレーするのが普通だった50年代、白いシューズは靴底のラバーの擦れですぐに真っ黒になってしまった。白黒写真の時代、「選手が汚れたままのシューズを履いているのはプロらしさに欠ける」と考えたアワーバックは、チーム全員に黒のシューズを着用することを義務づけた。  
 60年代後半、NBA選手の足元は、コンバース・オールスターやプロケッズ・ロイヤルなどに代表されるキャンバス地のシューズから、天然皮革製のシューズへと移り変わる。ドイツ発祥のアディダスは1968年、黒のシューズしか履かないセルティックスの選手のため、当時としては高級な黒いスウェードに白の三本線をあしらった「ブラックスター」を開発する。これが現在の「キャンパス」の原型だ。当初ビル・ラッセルら数名だった着用選手は徐々に増え、1969年のNBAファイナルではほぼ全選手が「ブラックスター」を着用。こうしてアディダスは、リーグ8連覇を誇るセルティックスの足元を固めることに成功した。    その後、1972年には豊富なカラーをそろえた後継モデルの「トーナメント」が登場。アーティス・ギルモア(当時ABA、のちにブルズ、スパーズなど)やカリーム・アブドゥル・ジャバー(レイカーズなど)ら一流選手がこぞって着用した。その中でセルティックスはそのまま黒いシューズの伝統を受け継ぎ、いつしかそれはリーグにおいて「強豪チーム」の象徴となっていった。    80年代を迎えシューズのハイテク化が進行すると、米国でのアディダスの存在感は次第に低下する。1982年、新興メーカーだったナイキが「エアフォースワン」を発表し、コンバースがマジック・ジョンソン、ラリー・バードらスター選手と契約する一方で、1978年に創業者アディ・ダスラーを亡くしたアディダスは当時、米国のバスケに十分な関心を払うだけの余力がなかった。アディダスとの契約を熱望していたプロ入り前のマイケル・ジョーダン(ブルズなど)からの売り込みを断ったのは有名な逸話だ。すでに競技用シューズとしての役目を終えていた「トーナメント」は、1983年にカジュアル用の低価格モデル「キャンパス」としてカタログに再登場する。  
 一方、ドイツから遠く離れたニューヨークでは、このシューズを、アディダスの意図と全く異なる視点で見つめていた人物がいた。1984年、音楽プロデューサーのリック・ルービンは、自身の設立した「デブジャムレコーズ」から、2組のヒップホップミュージシャン、RUN DMCとビースティ・ボーイズをデビューさせる。ルービンは彼らの衣装として、RUN DMCの足元には「スーパースター」を、ビースティ・ボーイズには「キャンパス」をコーディネートした。2組にとって“オールドスクールな”アディダスのキックスは、共通のバックグラウンドであるニューヨークのストリートを象徴するのに最適なアイテムだった。これがアディダスの仕掛けによるものではないことは、当時「キャンパス」がカタログから姿を消していたことからも明らかだ。    アンダーグランドな存在だったヒップホップに、ロックやパンクのエッセンスを採り入れ、メジャー化させようとするルービンの狙いは的中する。1986年、RUN DMCの「W6lk this W6y」と、ビースティ・ボーイズの「Fight for your right」が大ヒットすると、2組はファッションアイコンとしても絶大な支持を集める。米国での局地的なブームに気付いたアディダスは1987年末、再び「キャンパス」をラインナップに復活させ、「デフジャムレコーズ」との正式な契約を結ぶに至った。  
 この契約は、必ずしも成功とは言えなかった。当時のアディダスは、アディの跡を継いだ息子ホルスト・ダスラーの急逝により経営が混乱し、マーケティングの方針が揺れ動いた時期でもあった。RUN DMCのコンサートに150万ドルで協賛する一方で、せっかく獲得した大物ルーキー、パトリック・ユーイング(ニックスなど)との契約は3年で打ち切り、残った契約選手はドイツ出身のデトレフ・シュレンプ(ソニックスなど)ら数名に。“オールドスクール”なバッシュはストリートにはマッチしたが、ナイキエアとリーボックポンプに代表されるハイテク競争には完全に乗り遅れ、80年代末、米国におけるアディダスのシェアは10%以下に落ち込んでしまった。    だがこの時代、ヒップホップという文化に“サンプリング”されたことが、のちのアディダスの行方に大きな影響を与えたこともまた事実だ。50年前、セルティックスのために開発された黒いシューズは、ビースティ・ボーイズという新たな語り部を得ることで、広く愛され続ける定番キックス「キャンパス」へと生まれ変わった。名将アワーバックといえど、この展開は予想できなかったに違いない。     月刊バスケットボール2018年3月号掲載 ◇一足は手に入れたい! プレミアムシューズ100選http://shop.nbp.ne.jp/smartphone/detail.html?id=000000000593     (月刊バスケットボール)


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