【インタビュー】開志国際高校/恒岡ケイマン 決意の渡米と決意の帰国「その意味を絶対に証明したい」

米国ポートランドで生まれ、京都で育った恒岡ケイマン。開志国際への進学を思い描きながら、元NBA選手で指導者のデレック・フィッシャーの誘いを受けて単身渡米した。待っていたのは「1年間、公式戦に出られない」という現実。数々の試練を越え、名を上げ始めた矢先、彼は約束を果たすために開志国際へ戻ることを決める。激動の2年間を本人が振り返った。
こちらのインタビューは『月刊バスケットボール2026年12月号』掲載の冒頭です。全文は誌面にてご覧ください。
同世代に刺激を受けた
京都での中学時代
──恒岡選手は米国オレゴン州ポートランド生まれですね。幼少期のことを教えてください。
当時は、リッチモンド小学校の附属の保育園に通っていました。英語と日本語の両方を教えてくれる学校なんです。そこに小学1年生の終わりまでいました。当時、バスケチームには入っていませんでしたが、家の前にゴールがあり、父や1歳上の兄、2歳下の弟のチャーリー (恒岡チャールストン/開志国際1年)と遊びでやっていました。
──そこから日本の京都に移り住んだそうですね。
はい。父の仕事の都合で、僕が小学2年生のときです。父は東京の会社だったんですが、祖父母が京都に住んでいたので、京都から新幹線で会社に通っていました(笑)。ファーストランゲージは英語ですし、日本語は単語が少し分かるくらいでした。みんなが何を言っているのか分からず、学校でよく泣いていましたね。でも友達と遊んでいるうちに自然とベラベラになりました。今では父とは英語、母とは日本語、兄弟間では混ぜて話します。
──ミニバスに入ったのは?
京都は都会で、アメリカのようになかなか道端にゴールがありません。公園の公衆トイレをゴールに見立てたりして遊んでいたんですが、もっとバスケがしたいなと思って、小学3年生からミニバスに入りました。府ベスト16くらいで、強豪ではなかったです。でも6年生のとき、京都1位で全ミニにも出た詳徳ミニバスと対戦したんです。そこに山﨑燦吾(京都精華学園)がいて、京都ハンナリーズU15を当時教えていた佐々木和子コーチが彼を見に来ていました。それで僕にも声をかけてくれたんです。
──中学時代の思い出は?
京都インターナショナルスクールに通いながら、ハンナリーズに入団しました。中1の頃に京都精華学園中を破ってウインターカップに出場。それが初の全国です。それにU13のナショナルキャンプに選ばれて、それはコロナ禍で中止になったんですが、翌年のU14と翌々年のU15のキャンプは無事に開催されました。四日市メリノール学院中の本田蕗以(福岡大附大濠)や中村颯斗(東山)、今チームメイトの髙橋歩路やホーキンス然とも出会って。同世代にすごいメンバーがいるんだと知り、刺激をもらいました。
中学3年生のとき、佐々木コーチがハンナリーズを辞めて「KYOTO DREAMERS」というクラブチームを作ったんです。僕は佐々木コーチのおかげでこれまで良い経験をさせてもらったので、付いていこうと思って同期と移籍しました。ウインターカップ予選は京都精華に決勝で負けましたが、その京都精華がメリノールに次ぐ全国準優勝になり、自分たちにも力はあったんだと思いました。
実は中学2年生の頃、ハンナリーズの試合を見て富樫英樹先生が声をかけてくれました。その直後にウインターカップで優勝したので、感動したし、「卒業後は開志で日本一になるぞ」というワクワク感でいっぱいでした。
アメリカ挑戦の決断と
背中を押してくれた富樫コーチ
──中学3年時に、NBA選手輩出を目的とした育成プロジェクト「GLOBALLERS」でアメリカ遠征を経験。それが進路を一転させるきっかけになったそうですね。
はい。もともとGLOBALLERSのことは知らなかったのですが、存在を知って中2でトライアウトを受け、中3でアメリカ遠征に行かせてもらいました。昔から夏休みなどにアメリカに帰省してバスケしていたので、変に緊張せずいつもどおりにプレーできたと思います。それで「GLOBALLERS」の4期生として、留学の奨学金をもらえることになりました。
でも正直、迷いました。アメリカに挑戦したい気持ちもあるし、開志国際で戦いたい気持ちもあったので。ただ、決め手はデレック・フィッシャー(元レイカーズ)に誘われたことです。クレスビ・カーメライト高のヘッドコーチがフィッシャーでなかったら、正直自分は渡米していなかったと思います。
富樫先生は、迷う自分の決断まで最後まで待ってくれました。それで結局アメリカに行きますと返事をした後も、残念がりつつ「渡米までどこでバスケするの?」と聞いてくれて。夏休みに渡米予定だったので、中学卒業から3か月くらい期間が空いていたんです。そしたら「渡米まで開志で面倒を見てあげるよ」と。いや本当に、こんな先生いないですよね。進学をギリギリで断った自分に対して、「アメリカで頑張ってほしいから」と応援してくれて、受け入れてくれて。選手登録しないので公式戦には出られなかったんですが、カップ戦などには出させてもらいました。同期や先輩たちも良くしてくれて、初めての寮生活も楽しくて。短い3か月間でしたが、富樫先生にもチームメイトにも本当にお世話になって、感謝しかありません。
続きは『月刊バスケットボール2026年12月号』をご覧ください。
写真/中川和泉、文/中村麻衣子










