月刊バスケットボール9月号

NBA

2026.08.10

NBAの名将ドン・ネルソン氏が86歳で逝去、常識を覆し続けたネリーのバスケ人生

常識を打ち破り続けた“ネリー”


米複数メディアの報道によると、現地8月9日、NBAの歴史において最も革新的で影響力のあるコーチの一人、ドン・ネルソン氏が86歳で逝去した。家族から発表された声明では、「愛する夫であり、父であり、祖父であり、曾祖父であるドン・ネルソンは、愛する家族に囲まれながら安らかに主の御許へと旅立ちました。最後の1週間、友人や家族が愛をもって彼を囲み、友情の祝福を分かち合い、宝物のような思い出を語り合いました」と伝えられている。

“ネリー”の愛称で親しまれた同氏は、NBAで31シーズンにわたってヘッドコーチを務めた。ミルウォーキー・バックス、ゴールデンステイト・ウォリアーズ、ニューヨーク・ニックス、ダラス・マーベリックスで指揮を執り、レギュラーシーズン通算1335勝を記録。これは現在グレッグ・ポポヴィッチ(スパーズ)に次ぐ歴代2位の大記録だ。また3つの異なるフランチャイズで300勝以上を挙げた2人のうちの1人であり、最優秀コーチ賞を3度受賞。選手としてもボストン・セルティックスで5度のNBAチャンピオンに輝いている(背番号19は永久欠番)。2012年には、その偉大な功績が認められ、ネイスミス・メモリアル・バスケットボール殿堂入りを果たした。

ミシガン州マスキーゴンで生まれ、イリノイ州で育ったネルソン氏は、高校卒業後にアイオワ大へ進学。大学時代は平均21.1得点、10.9リバウンドという圧倒的な成績を残した。その平均得点は、いまだ同大学の歴代最多記録として輝いている。

1962年のドラフト3巡目19位指名でシカゴ・ゼファーズ(現ウィザーズ)から指名を受けてNBA入り。その後、ロサンゼルス・レイカーズでのプレーを経て、1965年にセルティックスへ加入。ここで彼の才能は大きく開花する。名将レッド・アワーバックHCの下で優秀なシックススマンとして定着し、ビル・ラッセルらとともに黄金期を支えた。

セルティックスでの11シーズンで、ネルソン氏は5度のNBAチャンピオンに輝いている。特にファンの語り草となっているのが、古巣レイカーズと対戦した1969年のNBAファイナル第7戦だ。残り1分強で103-102という中、彼が放ったフリースローライン付近からのジャンプシュートは、リングの後ろ側に当たって高く跳ね上がり、そのままネットに吸い込まれた。この決定打となり、セルティックスは劇的な優勝を飾った。1976年に現役を引退した後、彼の背番号「19」はセルティックスの永久欠番となっている。


指導者への転身と「ネリー・ボール」の誕生


現役引退後、レフェリーへの転身も考えていたというネルソン氏だったが、家族会議の結果、ミルウォーキー・バックスのアシスタントコーチに就任。そしてシーズン途中にヘッドコーチに昇格すると、ここから革新的戦術が生まれていく。

バックス時代には、ポイントフォワードという概念をいち早く実戦に持ち込んだ。ポール・プレッシーらボールハンドリングに長けたフォワードにオフェンスの組み立てを任せ、ガード陣に強力なスコアラーを並べるという当時としては型破りな戦術である。さらにオフェンスで脅威とならない自軍のセンターをあえてアウトサイドに配置することで、相手のショットブロッカーをゴール下からおびき出すなど、アイデアを次々と実行。ネリー・ボールと呼ばれたスタイルでバックスを7年連続のディビジョン優勝へと導き、1983年と1985年にはコーチ・オブ・ザ・イヤーを受賞している。

1988年からはウォリアーズの指揮官に就任。ここでティム・ハーダウェイ、ミッチ・リッチモンド、クリス・マリンの3人からなる「RUN TMC」を形成し、超攻撃的なラン&ガンスタイルでリーグを席巻した。

ウォリアーズが発表した追悼声明の中で、教え子であるマリンは「彼はまず第一に、一人の人間として私を気遣ってくれた。人生の困難な時期に示してくれたサポート、誠実さ、そして信頼を私は決して忘れない。単なるコーチ以上の存在だった」と語り、バスケットボールの枠を超えた深いつながりがあったことを明かしている。

また、1994年に自国で開催されたFIBA世界選手権(現ワールドカップ)では、「ドリームチームII」と呼ばれたアメリカ代表を指揮。シャックやレジー・ミラーらを擁するスター軍団を見事にまとめ、決勝でロシアを倒して金メダルを獲得している。



マーベリックスの再建と「ドイツの息子」ノビツキーへの愛


その後、ニックスを経て1997年にマーベリックスのヘッドコーチ兼ゼネラルマネージャーに就任し、チーム再建に着手する。1998年のドラフト当日のトレードでダーク・ノビツキーとスティーブ・ナッシュを獲得し、マイケル・フィンリーを加えたビッグスリーを形成。チームを強豪へと押し上げた。

特にノビツキーに対しては“ドイツの息子”と呼び、絶大な信頼を寄せた。そのノビツキーは訃報を受け、SNSで「あなたは私をドラフトしただけでなく、信じてくれた。私自身ができると気付く前に、私のプレーに可能性を見出してくれた」と感謝を述べた。さらに「あなたが最初のコーチとして自由にプレーさせてくれなければ、私のキャリアは今のようにはならなかった。ありがとう、レジェンド」とメッセージを綴っている。



2006年、ネルソン氏は再びウォリアーズの指揮官としてベイエリアに帰還する。彼が持ち込んだハイペースなオフェンスは、バロン・デイビスやモンタ・エリスらの持ち味を最大限に引き出した。

そして迎えた2007年のNBAプレーオフ1回戦。第8シードでギリギリ滑り込んだウォリアーズは、リーグ最高勝率を誇る第1シードの古巣マーベリックスと激突した。誰もが圧倒的不利を予想する中、ネルソン氏は古巣の弱点を見事に突き、4勝2敗でシリーズを突破。「WE BELIEVE」と呼ばれたアップセットは、プレーオフ史上最大の番狂わせの一つとして今も語り継がれている。

2009年NBAドラフトでは1巡目7位でステフィン・カリーを指名。ウォリアーズを通じた声明の中で当時を振り返り、カリーは「彼はルーキー(新人選手)を好まないという噂もありましたが、初日から僕に課題を与え、コート上で最高の自分になれる機会をくれました」と語り、その影響力の大きさを偲んだ。2010年、レニー・ウィルキンズ(2025年逝去)を抜きコーチとして歴代最多勝(当時)となる通算1335勝の金字塔を打ち立てると、長きにわたるコーチ人生に幕を下ろしている。



バスケットボール界に残した永遠のレガシー


コーチ引退後はハワイのマウイ島に移住し、農園で花やコーヒーを育てながら、親しい著名人たちとポーカーを楽しむなど悠々自適な生活を送っていたと伝えられている。その後、2026年に入ってテキサス州フリスコへと移り、そこで最期を迎えた。

NBAのアダム・シルバー・コミッショナーは、「恐れを知らぬ精神、独創性、そして深い信念によってNBAのバスケットボールに革命をもたらした」と声明を発表。ウォリアーズのスティーブ・カーHCも公式リリースを通じて、「彼が常識に挑み、誰も気付かない可能性を見出したからこそ、現代のNBAで当たり前となっていることの多くが存在する」と、その戦術的先見性を高く評価している。

コーチとしてチャンピオンリングは手にできなかったものの、既成概念にとらわれない革新的なアイデアと、選手を信じて才能を伸ばす手腕は、今のNBAにも脈々と受け継がれている。偉大な革新者、ドン・ネルソン氏の遺産は、これからもコートの上で永遠に輝き続けるはずだ。




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