月刊バスケットボール7月号

Bリーグ

2026.06.01

選手からコーチへ──長崎ヴェルカ創設メンバー弓波英人が歩んだ5シーズン「しっかりと自分の仕事をこなしていれば、運が巡ってくる」

今季の長崎ヴェルカには、B3リーグ参入を果たした2021-22シーズン当時からの創設メンバーが3人在籍している。

狩俣昌也、松本健児リオン、菅澤紀行の3人だ。ただ、選手ではない立場にも創設メンバーがいる。その一人がアシスタントコーチを務める弓波英人である。試合後のフラッシュインタビューや会見では通訳も務める弓波は、現在26歳。千葉県出身で9歳の頃に渡米し、アメリカの高校、大学を卒業している。

長崎に加わったB3でのシーズンが、彼の唯一のプロシーズンだった。初めてベンチ登録されたのは年明けの2022年2月5日に行われた豊田合成スコーピオンズとの第18節ゲーム1。39点の大量リードを奪っていた4Q残り2分24秒に榎田拓真からのアシストで3Pシュートを決め切り、プロ初得点を記録した。結果的にシーズン通算で4試合に出場し、トータル10得点。これがプロ選手としての弓波の最初で最後のシーズンだった。

そしてその後、彼はコーチとして長崎との関係を続け、今、チャンピオンチームのアシスタントコーチという名誉ある地位を手にした。

そんな弓波に、「B.LEAGUE AWARD SHOW 2025-26」で話を聞くことができた。彼は必死で食らい付き、駆け抜けた5年間を「今思うと一瞬だった」と振り返ったが、同時に「ただ毎日毎日…自分たちも結構、家族の時間などを全員が犠牲にしてきたと思いますし、今思うと一瞬ですけど、その1日1日は正直すごく長かったです」とも話した。まだ何者でもなかったクラブをイチから作り上げる日々は、やりがいであると同時に、犠牲を払う覚悟を持たぬ者には続けられぬ日々でもあった。

彼にとっての最初のターゲットが、ハピネスアリーナを含む長崎スタジアムシティ完成までの3年間だった。「最初の頃は3年目にスタジアムができるんだという思いが自分たちの中にあったので、まずはそこを目掛けてやっていって、(実際にアリーナができた)3年目で一旦、一段落というか、自分の中ではそこまでできたという感覚がありました」と弓波。立派な“城”ができるまでの間、クラブはメキメキと台頭し、最速2シーズンでB1昇格を果たすと、2024-25シーズンにモーディ・マオールHCを招へい。



ここから長崎ヴェルカは次のフェーズに突入した。弓波も「モーディHC体制に変わって、本当にいけるんじゃないかという思いがありました」と振り返る。昨季はシステムの浸透に苦戦し26勝34敗と負け越したが、成熟度が増した今季は21もの白星を上積みし、47勝13敗と大きくステップアップ。弓波はマオールHCを「人間として本当にすばらしい方で、コーチとしてももちろんですが、常に家族を第一に考えていて、周りのスタッフ陣のことも第一に考えてくれている、本当に愛を感じる方」と表現した。

そして、だからこそとも言うべきか、「彼とは全員が仕事をできるわけではない」とも言う。「それぐらい大変です。(マオールHCは)自分のリミットまでとにかくプッシュしてくるんです。それ乗り越えられない人もたくさんいると思いますが、逆に乗り越えられれば、こういう景色(優勝)が見られると思っていて。本当にもう辞めたいと思いましたし、本当にキツいとも思いました。正直、今シーズン、チームに戻ってくるのもすごく躊躇しましたが、その中でも(成功までの)プロセスがどこか自分の中で引っかかっているものがありました。『これをもう一回やったら、うまくいくんじゃないか』と思って戻ってきたら、こういう結果になりました」

マオールHCの改善する力や決断力の高さも弓波を感嘆させた。「断トツで飛び抜けている」とマオールHCを語る弓波の目には、どこか力がこもっていた。

伊藤拓摩GMとの不思議な縁

そもそも、弓波はなぜ幼くして渡米したのかにも言及したい。実は、そこには伊藤拓摩社長兼GMとの不思議な縁がある。

「僕が本当まだ小さかった4歳とか5歳ぐらいのときに、父と2人で将来の目標を立てて、それをプリントしたんですよ。何歳でこれをしようといったタイムラインのうちの一つに、アメリカに行って最終的にはNBA選手を目標にすると書いてたんです」

ただ、当時日本からバスケのために渡米する者などほとんどいなかった。今ほど情報を簡単に得られる時代でもない。そんなとき、幼き弓波少年と父の夢の足がかりになった存在こそが、伊藤拓摩と伊藤大司(アルバルク東京GM)の兄弟だった。

「その目標を書いていたときに、父の中では伊藤兄弟が頭にあったらしくて。そして、僕が9歳になったときに、たまたま父親の仕事の関係でアメリカに行けるかもしれないとなって、夜に急に父から『アメリカに行きたいか?』と聞かれたんです。その頃には『こういう道もあるんだ』と伊藤兄弟の話もちょくちょく聞かされてはいたんです。それで、いざアメリカに行くとなって3か月後には飛び立ちました。僕らがアメリカに行った頃、確かまだ大司さんがポートランド大でプレーしていて、それをテレビで何回か見た記憶があります」

当時の弓波は伊藤兄弟のことを知らなかった。しかし今は兄・拓摩の下で働いている。大司がGMを務めるA東京とはチャンピオンシップクォーターファイナルで戦った。「何だか不思議ですし、光栄なことです。この業界はどこかかしらでみんながつながっていると思います」と弓波は言い、こう続けた。「やっぱり、行ったところどころでしっかりと自分の仕事をこなせれば…この業界は運がすごく(左右する部分が)あると思うんですよ。運に恵まれない人もいれば、運で勝ち上がってくる人もいると思いますし。ただ、その運をつかむには、まず自分の仕事をしっかりしてないとその可能性も出てこないと思います。しっかりと一個一個自分の仕事をこなしていれば、こういう形で運が巡ってくるんだろうなと感じます」

ちなみに、拓摩GMにもその話をしたことがあるとのことだが、そこまで込みいって話したトピックではなかったようだ。


狩俣昌也から叱られた記憶

選手時代の弓波のエピソードも紹介しよう。彼がプロとして唯一プレーしたB3参入1シーズン目は、クラブの顔として活躍し、今季限りで引退した狩俣昌也が長崎にやってきた年でもある。

弓波に、狩俣との記憶に残るエピソードはあるかと尋ねると、「今パッと思い付くのは…」と、狩俣から激しく叱られたエピソードを話してくれた。

それは、レギュラーシーズン中のある試合のこと。「土曜日の試合前に僕は体調不良になってしまったんですけど、結構我慢していたんですよね。熱もあって、食欲もなくて。当時の自分は、風邪を引いても試合に行くのがチームのためだと思っていたんです。でも、いざ試合直前になって本当にキツくなってしまって、結局ホテルにずっといて、その試合には行けなかったんです。それで、やっと風邪が治ってチームに合流した次の週に狩俣さんに呼ばれて、『お前、本当にチームのことを考えてるの? 本当に考えてるんだったら、マスクをするべきだし、ちょっとでも体調が悪いって思ったなら来るべきじゃないでしょ。それがチームのためでしょ』と言われたんです」

今振り返れば「コロナ禍が明けたくらいのタイミングでしたし、もし僕の風邪が移ってしまったらと考えると、それが正しいと思います」と弓波は言う。ましてや長くプロキャリアを構築してきた狩俣ら先輩たちは、より敏感にコンディション管理に勤しんでいた。弓波の考えが全て間違っていたかといえば、そうではない。当時の彼は彼なりにチームに貢献するための術として、その行動を選択した。だが、狩俣はそれが逆にチームを乱す行動だと判断し、事実として狩俣の判断の方が正しいと言える。

これは弓波にとって、プロの世界で生きていくための教訓となった。

大学を卒業して長崎に加わった弓波は、いわゆる“新卒”の立場だった。右も左も分からぬまま、先輩たちからの叱咤激励を受けながら成長し、今では立派なコーチ陣の一員として、大観衆の前でチームを指導し、マイクを握って通訳もこなす。

文字どおり「長崎ヴェルカ一筋」の弓波がチャンピオンチームの一員であることは、クラブにとって誇らしいことの一つであるはずだ。






写真/石塚康隆、©︎B.LEAGUE、文/堀内涼(月刊バスケットボール)

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