月刊バスケットボール11月号

NCAA

2025.10.17

稲嶺葉月——「沖縄発」、「NCAAチャンピオン経由」で未来を切り開く挑戦-2

今年のNCAAトーナメントでファイナル4進出を決めた後、コート上で地区優勝楯を手に笑顔の稲嶺(©UConnWomen'sBasketball)

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おぼろげではあるものの英語力を養いながらコネティカット大の女子バスケットボール部に接近しようという“ゲームプラン”を持って渡米した稲嶺は、「同じキャンパスで語学学校に通えたのが本当に良かったと思います。あくまでも正式な大学生ではないんですけど、プレップスクールのような位置づけで学生として扱ってもらえたので」と渡米投書を振り返る。そこからは、何度も障壁にぶつかりながら、辛抱強く一つ一つをつぶしていく日々だった。「バスケ部にアプローチして活動にかかわれないかと実際に連絡を入れてみました。でも1週間、2週間と待っていても全く音沙汰がなくて、どうしようかなと焦るような気持ちでしたね」







いくつもの障壁を踏み越えて、コネティカット大での物語が動き出す

そんなとき、たまたまキャンパス内で、女子チームの練習相手を募集するトライアウトのチラシを目にした。アメリカでは珍しくないことで、一般的には男子学生が務めることが多い役目だ。コネティカット大でも例年は男子学生が務めている。それでも稲嶺には糸口に思えた。「申し込み要綱には特に性別の規定がなかったので、試しにメールしてみることにしました。女子でもトライアウトに参加することは可能なのかと聞いてみたんです」

すると「可能だ」という返答。すぐさま申し込んだ。

「参加するにはフィジカルテストや予防接種を済ませないといけないとか、いくつかのステップがありました。フィジカルテストはすぐに受けられたんですけど、予防接種は結果が出るまでに時間がかかて、トライアウトに間に合いそうにないタイミング。ああ、もう受けられないかもな…と思いつつ、ダメ元で予約を取って。チーム側にも結果がトライアウト当日までに出ないことを伝えたら、『予約を取ったのなら、結果は後から教えてくれればそれで構わない』と言ってくれました。結果的にこのトライアウトを受けられることになりました。あのときは、本当に「もう終わりか…」と思っていたんですけど、やっぱり聞いてみるものですね!」

トライアウトの現場で初めてチームスタッフやコーチと会って、数々のスターたちが汗を流した伝説的な練習施設に立つ。稲嶺はそこで男子学生たちに混ざって、コーチとグラジュエート・アシスタント(学業を続けながら大学チームでアシスタントを務める学生)たちが見ている中でプレーして、審査を受けた。

「プレー自体はできました。でも、コネティカット大の一番小柄な選手でも私よりも大きいので、合格はちょっと難しいかなと思いましたけれど」。結局のところ、やはり合格者は男子学生で占められていた。しかし数日後、スタッフから連絡が入る。何とコーチ陣が会いたいと言っているという。「アシスタントのオフィスに行ったら、『トライアウトは通らなかったけれど、マネージャーには興味があるかい?』と聞かれました」。まだそのときは英語にそれほど自信なかった稲嶺は、不安の方が先に立っていた。「コーチが話した言葉の意味を、私はちゃんと正しい意味で捉えられているのかな…みたいな。うーん…。まあ、でも“マネージャー”と何度も言っていたから、多分マネージャーになりたいならやってみないかと言ってくれているんだろうなと思って、とにかく「やります」という返事をしました」

実際、それはマネージャーのオファーだった。ところが、申込書の提出という段になって、またしてもハードルが待ち構えていた。GPA(Grade Point Average=アメリカの大学への留学に必要な学力があるかどうかを判断するための学業成績評価点)や履修している授業を記入しなければならない。その時点で正式なコネティカット大の学生ではなかった稲嶺は、記入できる履修データがなかったからだ。

「それで結局マネージャーも不可。もうダメか…となりました」

しかしそれとほぼ同じタイミングで、稲嶺自身ではなく東頭宛に、別のアシスタントコーチから連絡が入る。「以前連絡をくれていた若者を練習見学に来させても構わないよ」というメッセージだった。ここで、稲嶺のトライアウトを介してのつながりと、東頭と別のアシスタントとのつながりが、関係者の間で初めて一つになる。「トライアウトを受けた私が、東頭さんから伝えてもらっていた女子学生なのだということがチームスタッフの中で認識されて、練習参加のオーケーをもらうことができました。それでも一筋縄にはいかないもので、『今日は非公開練習だ』とか、『試合前だからまた別の日に』みたいなことの繰り返しで1年間がほとんど過ぎてしまいましたけれど」と稲嶺は苦笑いで振り返った。

当時、バスケットボールを離れた友だち付き合いも稲嶺にとって非常に有益だった。アメリカでの暮らしに慣れて徐々に学生仲間も増えていく。大卒で渡米した稲嶺の周りには、自然と大学院生の友だちが多くなったが、彼らの生活ぶりや学業への取り組みを見ているうちに、稲嶺自身も大学院進学に興味を持つようになったのだ。

「何だか面白そうだなと思うようになったんですよね。アメリカの大学院は、入ることに関しては日本のようにハードルが高くなさそうな印象もあったのと、院生たちがいろんな活動をしていて、すごく助けになる奨学金の制度もあるんです。特に私のスポーツマネジメントの過程は、学外でインターンをすることでも単位がもらえるなど卒業までの道筋がいろいろあると聞いて、それならやってみたいなというふうに思いました」

おそらく日本にとどまっていたら、大学院に行こうと考えることもなかっただろう。渡米したからこそ、いろんな大学院の形があることが、同じような志を持つ学生たちの言葉を通じて直接的に理解できた。「それなら1年間の予定だった留学を伸ばして大学院に行ってみようと考えました。これも1年目の大きな決断でしたね」と稲嶺は言う。

「アメリカ留学はすごいお金がかかると理解していたんですけど、その全額が免除になる制度を私も活用できるということを改めて再認識しました。アシスタントシップ(学生が大学の業務サポートに対して学費等の援助を受ける制度)やグラジュエート・アシスタントみたいな立場になることができれば、収入も得られます。大学院で2年間勉強できて学位が取れて、アメリカで様々な挑戦ができると思うと意欲も気持ちも強くなりました」

両親は稲嶺の途方もない夢のような話に最初は当惑し、「あなた、研究するの!?」と驚くばかりだったという。海の向こうでの話で、学費免除の話を聞いてもなかなか呑み込めなかったかもしれない。「たぶん今も100%理解してくれてはいないかも。何千万円もの学費が免除になるなんて、ありえませんものね! 私自身、チャンスがこんなにあるんだというのは渡米してから分かったことでしたから」。それでも家族の理解を得て、稲嶺はコネティカット大の大学院進学を実現させる。

ちなみに、入学するのはさほど難しくないというのはイメージだけで、「入学も実際にはとても難しいハードルで、すごく勉強しました」と稲嶺は話している。一つ一つのハードルをクリアしていく日々の中で、学業もしっかりルーティンに組み込んで生活していたからこそ、道が開けたのだ。

パート3に続く





文/柴田健

タグ: コネティカット大学

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