月刊バスケットボール11月号

NCAA

2025.10.17

稲嶺葉月——「沖縄発」、「NCAAチャンピオン経由」で未来を切り開く挑戦-1

今年のNCAAトーナメントでファイナル4進出を決めた後、コート上で地区優勝楯を手に笑顔の稲嶺(©UConnWomen'sBasketball)

アメリカのNCAA女子バスケットボールで、2024-25シーズンに9年ぶり12回目の全米制覇を成し遂げたコネティカット大に、沖縄県出身の日本人女性スタッフが在籍していたことは、アメリカのみならず日本においてもほとんど報じられていない。同大からその後WNBA入りし、直後の2025シーズンで新人王に輝いたペイジ・ベッカーズのことは知っているファンも多いだろう。しかし実は、ベッカーズのほかに——あるいは日本のバスケットボールファンとしてはベッカーズ以上に——注目すべき存在がいたのだ。


稲嶺葉月。現在はコネティカット大を離れて、今シーズンからセントラルコネティカット州立大でアシスタントコーチとして働いている。しかし稲嶺は、今春のNCAAトーナメントの現場でコネティカット大が全米制覇を成し遂げた歓喜の瞬間を、ベッカーズらとともに味わっていた。


稲嶺のNCAAチャンピオンシップ記念アイテム。中央やや右にあるのが、ベッカーズから送られたチャンピオンネットと「サンキューレター」だ(写真提供/稲嶺葉月)

快挙を記念するアイテムの写真に、チャンピオンネットの一片(優勝チームの伝統でリングからネット切り取る「ネットカット」の儀式で切り取られたもの)があるのにお気づきだろうか。これはほかでもないベッカーズが絆の証として稲嶺に送ってくれたもの。「一生の宝物です。本当はチャンピオンリングも一緒に写真を撮りたかったのですが、まだリングは届いていないもので…」と稲嶺は教えてくれた。しかしこの一片のネットも、稲嶺のさりげない連絡の内容も、渡米チャレンジがもたらしたとんでもなく大きな、かけがえのない価値を象徴している。

人と人との縁で強豪チーム入りの扉が開く

稲嶺はコザ小1年生のときからバスケットボールに親しみ、コザ中、糸満高を経て江戸川大に進んだ。身長169cmのガードとして活躍し、高校時代の2016年には沖縄県の少年女子チームで国体にも出場、江戸川大では最終学年ではキャプテンを務めた。母は元日本代表、父は県内のクラブチーム「オールドスターズ」で活躍したプレーヤー。バスケットボールを愛する人々に囲まれながら育った稲嶺は、バスケットボールの世界に飛び込んだという以前に、その中で生まれた女の子だった。





「もう自然に『バスケやらないことはないよな』みたいな感じで(笑) 感覚的には生まれたときからバスケの環境にいました」とにこやかに話す稲嶺は、生まれたときからのバスケットボールに対する情熱をそのまま膨らませて大人になったような女性だ。

「大学時代はコロナ禍。最終学年時には、プロの道を志してプレーを続けるか、コーチをやってみたい気持ちを突き詰めるか、いろいろと考えました。その上で周囲の人とも話して、コーチを目指して今からキャリアを積んでいく結論を出したんです」。江戸川大の女子バスケットボール部が学生たちに教員免許取得を勧めていたこともあり、稲嶺は若い世代の指導に興味を持つようになっていたのだ。英語が好きだった稲嶺は、卒業前に英語の教員免許を獲得。コーチングに関しても子どもたちの指導を手伝う機会を見つけて、少しずつ経験を積んだ。

一方で当時の相談相手の中に、有力なスキルコーチとして知られる廣畑知也(バスケットボール・スクール「T’sファクトリー」)を介してつながった東頭俊典(神戸ストークスのアシスタント)がいた。東頭はクラブでのコーチングと別に、海外挑戦の意欲を持つ若者とその家族向けに助言や留学手続きなどのサポートを行う合同会社ELPISを独自に経営している。稲嶺にとっては、江戸川大卒業後に渡米して本場でバスケットボールを学びなおすことを具体的に考えるきっかけとなる出会いだった。

「英語の教員免許は大学で取っていたんですけど、だからといってすごく英語に自信があるわけでは全くありませんでしたし、留学も、もともと興味はあったんですけど、ずっと目の前のバスケ優先で見送ってきていました」。チャンスがあったら…という気持ちだけが心のどこかに置き去りにされていた。つなげてくれたのはバスケットボールに情熱を燃やす人と人との縁。偶然なのか必然なのかはわからないが、最終的に稲嶺の渡米は実現するのだ。

しかし、だからと言ってとんとん拍子でコネティカット大進学の機会に恵まれたわけではなかった。

「ディビジョン1に行きたい気持ちはあっても、ほとんど無名で目立つ競技歴もない私がそんなに簡単に行ける場所じゃないとも思っていました。だから当初は、どこかにとりあえず行けたらいいやという気持ちだったんです」と稲嶺は言う。透かし周囲の大人たちは別の見方をしていた。

「東頭さんからは『お金もかけていくのだから、ダメ元でもディビジョン1を目指した方がいい』と言ってくださいました。迷っていた時に地元でお世話になっている方からも、『行くなら絶対に強いところへ行かないと無駄にしてしまうぞ』と言われて。母や叔母の知り合いでもある方で、急に電話をくださってそう言ってくださったことも大きかったですね。これは覚悟を決めるしかないなと思って、今の道を目指すことにしました」

こうして稲嶺はスタートラインに立つ。しかし、コネティカット大のような名門には入りたくても入れない。「ダメ元」という東頭の言葉はそのとおりだったはずだ。

稲嶺にとって幸いだったのは、同大付属の語学学校が同じキャンパス内にあったことだ。稲嶺はまずそこで英語をブラッシュアップしながら、名門チーム入りにつながる突破口を見いだそうと考え、そのプランを実行に移した。「どうにかなるだろう。いや、どうにかしなきゃいけないんだ」――その思いだけで稲嶺は留学手続きに踏み切った。

パート2に続く





文/柴田健

タグ: コネティカット大学

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