【インタビュー】千葉ジェッツ関谷間、開拓者が進む次なる舞台は“本場”アメリカ

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この夏、第 18 回「スラムダンク奨学金」の奨学生として渡米予定の関谷間。クラブチームTokyo Samurai でのプレーを評価されて 2023 年に千葉ジェッツ U18 に加入すると、すぐさま主軸として活躍。また同年から 2 シーズンにわたり、B リーグの「ユース育成特別枠」登録によりトップチームに帯同し、通算で B1 公式戦 11 試合に出場するなど、同世代の有力選手とは異なる道を歩みながら、トップを目指してきた。そんな関谷にこれまでのキャリアや今後の展望について語ってもらった。
こちらのインタビューは『月刊バスケットボール2025年9月号』掲載の冒頭です。全文は誌面にてご覧ください。
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中学時代にラグビーも経験
「すごく良い仲間に巡り会えた」
──バスケはお兄さんの影響で始めたそうですね。
兄が地元のミニバスでプレーしていて、それを見に行ったときに兄の頑張っている姿に憧れを抱いたんです。それで、コートの横にあるリングでちょっとシュートを打って、楽しいと思ったので始めることにしました。父も高校で少しバスケをしていたのですが、兄の影響です。だから、いわゆるサラブレッドとかではないですね(笑)。
でも、小6で163cmくらいあって結構大きかったです。当時はスコアラーのような役割をしながら、リバウンドも取ってそのまま運んでと、自分で全部いけちゃうから軽くレイアップまでいっていた感じでしたね。
──オールラウンダーですね。ミニバス時代の成績は?
自分の代は東京都大会ベスト8で、市内ではずっと優勝できていました。東京ってめちゃくちゃチーム数が多くて、トーナメントの大会以外に多摩地区リーグや23区リーグなどの大会がいくつかあります。僕は立川市出身なので、西東京の方でめちゃくちゃ多いチームの中で常に競争していましたね。僕の代に全国ミニバスに出たのはGレジェンドというチームだったのですが、僕らはそこと結構競っていたんです。ミニバスでの最後の試合もそこと当たって負けてしまいました。
──中学時代に東芝ブレイブルーパス(ジャパンラグビーリーグワン)のスクールに通っていたそうですね。
そうなんです。実はその頃に腰椎分離というケガをしてしまって、そのときにバスケだけやっていても、バスケだけに順応する体になってしまうからと、ほかのスポーツもしてみることにしました。父がラグビー経験者だったこともあって勧めてくれたんですけど、チームの方も「バスケもラグビーもどっちもやっていいよ」と受け入れてくれて。違うスポーツをやったことはとても良い経験でした。
──例えばアメリカではスポーツはシーズン制で、子どもたちがさまざまな競技をプレーすることが一般的です。レブロン・ジェームズがアメフトでもトップ選手だったことは有名ですが、今、ラグビーの経験がバスケに生きていると感じる部分は?
ステップワークやフットワークなどはラグビーを経験してうまくなっていった部分もあったので、そこはバスケに落とし込めているかなと思います。それに、全体的な運動能力も上がったと感じています。でも、よく言われる体の強さとかはあまり変わっていないと感じているんです。というのも、ラグビーは1年くらいしかやっていなくて、始めたての頃はぶつかることに少し怖さもあって、それに慣れ切る前にバスケに絞ってしまったので。
あと、もう一つそのときの経験で価値があると感じているのは、そこで出会った人とのつながりです。ラグビーって文化がすごく出来上がっていて、知り合った一人一人がすごく人格の良い方でした。当時のコーチや選手とは今でも連絡を取り合っていて、競技は違いますが、将来、当時のチームメイトとどこかのタイミングで一緒に日本を背負って戦えるといいなとずっと話しています。違う競技でも切磋琢磨できる仲間ができたのはすごいこと。最近も大会の応援に来てくれて、すごく良い仲間に巡り会えました。
将来的な渡米を視野に
千葉ジェッツU18に加入
──高校の部活動ではなく、千葉ジェッツU18を選んだ理由は何ですか?
実は僕、最初は川崎ブレイブサンダースのU18チームに入ったんです。当時はクラブチームのTokyo Samuraiにも所属していて、2つのチームを行き来するような感じでした。でも、なかなか川崎の練習に行けなかったこともあって、どちらか一方を選ぶことになってTokyo Samuraiを選びました。そこからジェッツユースに声をかけてもらったのが高校2年生の夏。Tokyo Samuraiでは毎年夏にショーケースを行っているのですが、そこで当時のヘッドコーチだったジョン・パトリックさんと池内勇太GMから誘われたんです。アメリカに行く前にプロの高いレベルを経験できるのは、すごく良い準備になるのではないかと。それでジェッツに加わりました。
──ショーケースには山﨑一渉選手や今千葉Jに所属している菅野ブルース選手なども参加していたことがありますよね。
ブルースさんはかぶっていなかったですが、一渉さんは一緒だったと思います。一渉さんが日本に帰ってきたときは話もしますし、アメリカで活躍している選手の一人でもあるので、現地のことをいろいろ聞いたり、良くしてもらっていますね。
──Tokyo Samuraiに入った理由は?
トライアウトがあることを父が見付けてきてくれて、中学時代からアメリカの大学に進学するという目標があったので、そこに近いのはTokyo Samuraiかなと思いました。チームには英語しかしゃべれない選手もいるので、自分から英語をしゃべろうとする環境があったのはすごく良かったです。バスケをする上ではコミュニケーションを取らなければならないので、そういう能力はかなり付いたと思います。
──初めてアメリカでプレーしたいと考えたのはいつですか?
初めてそう考えたのは小さい頃でした。ミニバス時代にステフィン・カリーなどを見て、みんなのように憧れを抱いて、ばく然とアメリカに行きたいと思い始めたんです。あの頃は家に帰るとすぐにテレビをつけて試合を見ていて、特にラッセル・ウェストブルックが好きでした。アメリカに行くことが目標としてよりはっきりしたのは中学3年生の頃です。
──それはなぜ?
当時、リバーサイドフォックスというU15のクラブチームに入っていたのですが、Jr.ウインターカップの都予選で負けてしまって、進路をどうしようか考えたんです。その決断はすごく大事になるので、そこで先のことをより真剣に考えるようになりました。自分は今どんな目標があって、どこを経由して何を達成していくのが良いのか。そう考えた結果、やはりNCAAディビジョンⅠの大学に進むこと、つまりアメリカに行くことだと考えました。
続きは『月刊バスケットボール2025年9月号』をご覧ください。
写真/石塚康隆、文/堀内涼(月刊バスケットボール)