【インタビュー】東山高・大澤徹也コーチのオフェンシブマインド「100点取られたら101点取る。それはずっと変わらない」

高校バスケにおいて、目指すスタイルとしてよく聞かれるのが“堅守速攻”である。まずはディフェンスでしっかりと相手を抑え、そこから走ってイージーバスケットにつなげる──そうしたチームは多い。しかし、東山高の、大澤コーチの掲げるコンセプトは「100点取られたら101点取る」という超オフェンシブなものだ。とにかく攻撃的に点を取って勝つ。そんなスタイルを曲げずに指導を続けて20余年。昨夏のインターハイで日本一を極めた指揮官に迫った。
こちらのインタビューは『月刊バスケットボール2025年7月号』掲載の冒頭です。全文は誌面にてご覧ください。

小6で180cm!
田臥勇太にも勝利した
──まずはバスケを始めたきっかけと時期を教えてください。
バスケを始めたのは小学4年生の頃です。僕は子どもの頃から身長が高くて小6で180cmくらいありました。めちゃくちゃ目立っていたと思いますし、ランドセルも背中にセミが止まっているくらいの大きさだったんじゃないかと。だから、それが好きじゃなくて内気な少年だったんです。それで、僕が小学生のときにちょうどJリーグが開幕したのですが、もしサッカーを始めたら大きいから多分ゴールキーパーにされるだろうなと思ってサッカーにはあまり興味を持ちませんでした。そんなときに1、2年生の頃から熱心にバスケに誘ってくれた先生がいたので、始めてみることにしたんです。家族には経験者がいなかったので、その先生が誘ってくれなかったら多分バスケはやっていなかったと思いますね。
──ミニバス時代の成績は?
大きかったこともあって4年生から試合には出られたのですが、パッとせず…。5年生になる頃に愛知県豊田市内のミニバス教室に入って本格的にバスケを始めました。その後、愛知県大会の決勝まで進んで、岡崎ミニバス教室と戦って準優勝という成績は残したことがあります。
あと、実は5年生のときに田臥勇太さん(宇都宮)が通っていた横浜の矢部小と対戦して勝ったことがあるんですよ。中学時代も2年時の千葉全中の準決勝で対戦して勝ったので、何と僕は田臥さんに勝ち越した男なんですよね(笑)。高校ではウチがそこまで強くなかったので対戦することはありませんでしたが。
──それはすごいですね。京都府の洛西中に進んだのはなぜですか?
いわゆる越境です。僕が進む学区内の中学校にはバスケ部がなくて、どちらにしてもバスケは続けたかったので県内の学区外の中学校に越境することを考えていたんです。そんなときに当時、洛西中の監督だった田中幸信先生に誘っていただいたんです。というのも、京都の新林小と何度か練習ゲームをする機会があって、そこで見ていただけたようで。
今考えると相当大きな決断でしたけど、母が一緒に京都に引っ越してくれて2人暮らしのような形でしたし、迷いはなかったですね。当時はバスケを続けたい、強いチームでやりたいという思いだったので、自然に決断できました。
──2年時には全中優勝も経験しています。
洛西中は強いチームだったので、日常的に僕らができていることがすごいことだとはあまり感じていなかったんです。それよりも、次はこれをやらなきゃという必死の3年間でした。全国優勝できたのはすばらしい経験でしたが、近畿地区ではずっと負けていなかったので、自分の代でそれを途切れさせるわけにはいかないといった、勝たなければならないプレッシャーを中学生ながらにすごく感じていました。それに、地元を離れたからにはという思いももちろんありました。振り返ると、そういう経験ができたのは大きかったです。
東山高を勝たせるべく奮闘
高3の冬に初の全国出場
──進学先に東山高を選びました。田中コーチもそのタイミングで同校の監督に就任しましたが、その影響は大きかったですか?
今だから言えますが、当時の強豪校からはたくさんお声がけいただきました。京都では洛南からも声をかけていただきましたし、能代工(現能代科学技術)からもお話があったんです。それに、地元の愛知工大名電も強かったです。当時はチームが傾きかけていた時期で、浅井保行先生が病気で亡くなられたのもあって、地元の高校をもう一度自分が、という思いもあったんです。
しかし、ミニバスでも中学でも、自分たちの代ではベスト16とベスト8に終わっていました。自分が責任を負うべき年に結果が出せていなかったので、父から「高校でつらい経験をするかもしれないけど、お前が東山を勝たせてみたらどうだ?」と言われました。その言葉に加えて、やはり田中先生の影響は大きかったですね。
──大澤コーチが進学した年が、東山高バスケ部の強化1年目だったそうですね。
そうです。かつては全国大会に出たこともあったそうなのですが、僕が入学した時期は府内でベスト4に入れるかどうかでした。そこに、僕ら洛西中のメンバー4人と田中先生が加わって上がっていったイメージです。まずは洛南を倒すことを目標にしていましたが、その壁をなかなか乗り越えられず…。初めて勝てたのが高2の冬の府予選準決勝でした。しかし、これでやっと全国に出られると思っていたところで、決勝で鳥羽に負けてしまったんです。準決勝で勝ってホッとしてしまって結局、全国大会には出られずじまい。あれは高校時代の一番悔しい思い出ですね。
──翌1999年の選抜優勝大会では初出場でベスト8、さらに大会得点王に輝きました。
はい。3年生のインターハイ予選では負けてしまったのですが、近畿大会の決勝では洛南に勝てていました。その後、選抜の予選でも2点差で勝ててようやく全国大会に出ることができました。
洛南と初めて対戦したのは僕が1年生の頃の新人戦だったのですが、その試合、僕はインフルエンザで出られなかったんですよね。それまでは洛南と対戦する前に負けてしまっていたので、ようやく対戦するところまで来たのに戦えず、田中先生から「お前はなぜ肝心なときにいないんだ」と怒られたのをすごく覚えています。その試合は結局大敗して、個人としての初対戦は高2のインターハイ予選でした。良い試合はできたのですが、結局最後は15〜20点差で負けてしまったので、全国に出るまでの道は本当に長かったです。ミニバスも中学も全国に出ていたので、「全国に出るのってこんなに難しかったっけ?」と思うくらい、そこに至るまでの道のりは長く感じました。
──目標としていた全国大会に出られたことは、現在の指導者人生にも生きていますか?
そうですね。僕が高校生の頃のチームと、今のチームは少し似ている部分があるんです。昨年のウインターカップで全員が瀬川(琉久/千葉J)に対して「お前が打って負けたならしょうがない」ということを言っていましたが、僕が現役生だった当時も「大澤のシュートで負けたのなら何も文句はないよ」と言ってくれるチームメイトがいました。そういう信頼関係の面で共通点がすごくありますね。指導者になったときに、東山で自分が経験したことを子どもたちにもさせてあげたいと思っていました。少しずつですが、そういうチームを作れるようになってきたと思います。
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続くインタビュー内容は…
【100点取られたら101点取る】
【ピック&ロールの原点は“あの”コーチ】
続きは『月刊バスケットボール2025年7月号』をご覧ください。

写真/石塚康隆、JBA 文/堀内涼(月刊バスケットボール)