【インタビュー】平良彰吾が努力を積み重ねて成し遂げたシンデレラストーリー「積み重ねていかなければ絶対に上には行けない」

驚異的な運動量を生かしたディフェンスで相手を苦しめる平良彰吾。今季開幕時はB3の横浜エクセレンスでプレーしていた平良が、B1の舞台に初めて立ったのは昨年10月19日の滋賀レイクス戦。期限付移籍で琉球ゴールデンキングスの一員としてB1デビューを飾った。当初は11月13日までの移籍期間だったが、短期間で琉球のシステムに順応し、十分に戦力となれることを証明。今季終了までの期間延長をつかんだ。現在28歳の平良が、悲願のB1にたどり着くまでのストーリーを話してくれた。
こちらのインタビューは『月刊バスケットボール2025年6月号』掲載の冒頭です。全文は誌面にてご覧ください。

──今回はぜひ平良選手がB1にたどり着くまでの過程を話していただければと思っています。今、こうしてタイトルを争う琉球の一員としてプレーしている事実をどう捉えていますか?
よろしくお願いします。本当にありがたいことですし、だからこそ、このチームに貢献して少しでも多くチームのためにプレーしなきゃいけないなと思っています。
──3月15日の天皇杯決勝では、岸本隆一選手が足のけいれんでコートを離れている時間帯に見事な活躍でチームに貢献しました。改めて、あの試合をどう評価しますか?
ある程度は活躍できましたが、まだまだやれることはあったと思います。あの試合を見返していてももっと決められるシュートがあったし、もう少し良いリズムを作れたかなと思うことが多いです。まだまだやれることが多いと感じてはいますが、思い切り良くプレーできたことは良かったのかなと思いますね。
──その中でも、一定の自己評価を与えるとしたらやはりディフェンス面ですか?
そうですね。やっぱりディフェンスでプレッシャーをかけることが自分がコートに立つ上で一番大事にしていることなので、評価するとしたらディフェンス面ですかね。
──天皇杯優勝は、平良選手のバスケ人生で初めての日本一でしたか?
そうです。ですが、個人的には日本一になったことよりも、このチームで一丸となって戦って優勝を喜べたことが一番うれしかったんです。もちろん、日本一が懸かった試合ということで緊張なんかもありましたが、その上でみんなで喜べたことは一番うれしかったし、良い経験になりました。
──直前には東アジアスーパーリーグ(EASL)のファイナル4も戦いましたね。
EASLも大きな大会でしたが、やっぱりまた雰囲気は違いますよね。会場の規模も違いますし、天皇杯は国内の大会ということもあって、注目度も高かったです。会場は東京でしたが、現地まで応援に来てくださるキングスブースターさんがいっぱいいたので、まるでホームコートのような雰囲気でした。あの決勝戦はすごく気持ちがたかぶりました。
──湘南ユナイテッドBCに所属していた2022年9月の天皇杯2次ラウンドでは、福岡第一高に完敗を喫しました。あれから2年半あまりで優勝まで駆け上がり、かつ重要な活躍をしました。その過程をどう感じますか?
本当に運が良いなと思います。あの年もそうですが、そもそも横浜エクセレンスにいた去年の9月にも2次ラウンドで負けていますから。それなのにもう1回天皇杯を戦うチャンスをもらえて優勝できるなんて本当に運が良いし、ありがたいことです。
湘南時代の天皇杯は…正直、あまり思い出したくありません(笑)。悔しさやいろいろな感情があってネガティブになってしまうことも多かったですし、今は心の奥底にしまっている記憶です。ただ、あの負けによってもっとやってやろう、やらなきゃいけないと思ったことも事実なので、それが成長につながったのかなとも思います。

──父は沖縄県出身で元日本代表の勝利さん、兄・彰大さんも市船橋高時代にウインターカップ2010で大会ベスト5にも選ばれた実力者でした。バスケを始めたのは、やはり家族の影響ですか?
どちらかというとお兄ちゃんの影響が強いです。実は僕、もともとバスケには全然が興味なくて友達と遊んでいる方がずっと好きだったんです。だから、バスケを始めたのも小学3年生の終わり頃とそこまで早くないです。それに、お父さんもお兄ちゃんには結構バスケを教えていたのですが、弟の僕にはそこまでバスケを絶対にやらせようとは考えていなかったみたいで。でも、ずっとお兄ちゃんの試合は見に行っていて、なぜか小3の終わりに急に「自分もやりたい!」となったんです。
──バスケのどんなところにのめり込んでいったのでしょうか?
バスケを始めたときのコーチが優しくて、そこでバスケの楽しさを教わったんですよね。このプレーが好きになったというよりも、バスケ全体が好きになりました。それにお兄ちゃんの影響もあってNBAの試合のDVDをいっぱい見たりとか。全然興味がなかったのに、急にバスケ漬けの生活になりました(笑)。
──当時は千葉県で暮らしていたのですか?
両親は沖縄出身なのですが、僕は千葉生まれで船橋で育ちました。ただ、バスケを始めた頃は札幌に住んでいて、1年くらいは札幌のミニバスチームに入っていました。その後、小5の頃にまた千葉に戻ってきて、それからはずっと千葉に住んでいました。
──ということは、沖縄県には住んだことはなかったのですか?
キングスに入るまでは住んだことはなかったですね。親戚はみんな沖縄にいるので、しょっちゅう沖縄には帰っていましたけどね。実際に住んでみて沖縄はやっぱり温かいなと思いました。気候もですが、人もです。親戚も近くにいるので応援してもらえますし、2年ほど前からは両親も沖縄に住んでいるので、家族がいる中でプレーできるのはありがたいなと思います。
──市船橋高に進んだのはお兄さんの影響ですか?
そうですね。それに家も近かったので。そこから拓殖大に進んだのはお父さんの母校でもあるからです。

──高校時代には世代別の日本代表に選ばれ、大学でも活躍しました。しかし、卒業後はなかなかB1にチャレンジするチャンスはつかめませんでした。「いつかはB1で」という目標はブレませんでしたか?
ブレなかったです。B1でプレーするとはずっと口にも出していたので、それが本当に実現したので、やっぱり言葉にしてみるものだなと思いましたね。僕の中ではB1でもB3でも自分のやれることをやるという意識は変わらないと思っています。B3だから頑張らなくていいということでは決してありません。元チームメイトや知っている選手がB1で活躍しているのを見て、羨ましい気持ちになったりするときはありましたが、自分は自分の今いる環境でやるべきことをやらないといけない。積み重ねていかなければ絶対に上には行けないと思っていましたから。そんなときにたまたま運良く声がかかったという感じです。
技術的な面ではガードとしてのゲームメイクは意識していました。今でもそこは課題ですが、加えてディフェンスでできることを全部やったり。そういう部分を自分に自信を持ちながら強化していかなければならないし、その成果をコートでしっかりと表現することが大切でした。
──ディフェンスに力を入れ始めたのはいつ頃からですか?
アンダーの日本代表に選ばれたときに、周りには八村塁選手や牧隼利選手などのうまい選手ばかりで、自分にはそんなに大きな役割がないだろうなと思ったんです。そのときに相手のガードに張り付いて少しリズムを崩すだけでもコーチから評価してもらえました。大学でも同じように周りにうまい選手がいる中で、僕がずっと前からディフェンスで当たって、それに反応して味方も良いディフェンスをしてくれたり。そういうことがあって、ディフェンスはキャリアを通してずっと自分の持ち味になりました。
──ディフェンスを武器にするにあたっては、周囲からの評価と自分の中の手応えと、どちらが大きかったですか?
両方ありましたね。アンダーの頃は(トーステン)ロイブルさんから「良いエナジーを持っているから、迷わずやっていけ」と言ってもらえたこともありましたし、大学を卒業してライジングゼファーフクオカでプレーしていたときも当時のヘッドコーチだったペップさん(ジョゼップ・クラロス氏)はディフェンス重視のコーチでしたから、プロでもディフェンスで評価してもらえました。プロキャリアは福岡から始まっているので、当時の気持ちを忘れずにプレーしたいという面でもディフェンスを武器にしています。
──もともとディフェンスは好きだったのですか?
いや、全然好きじゃなくて、オフェンスで1対1をしている方が好きでした。でも、フットワークメニューとかはサボらずにしっかりとやっていたので、そこで培った足腰の強さは今に生きているのかなと思います。
─────────────
続くインタビュー内容は…
【琉球から届いた「驚き」のオファー】
【漠然と思い描いていた沖縄でのプレー】
続きは『月刊バスケットボール2025年6月号』をご覧ください。

写真/B.LEAGUE、琉球ゴールデンキングス 文/堀内涼(月刊バスケットボール)