月刊バスケットボール11月号

Bリーグ

2025.03.17

【インタビュー】川崎ブレイブサンダース益子拓己「プロは夢がある職業だが、 その一方で…」

川崎ブレイブサンダースの益子拓己。現在24歳のウィングは昨季、練習参加を経て選手契約を勝ち取ると、まるで救世主がごとく活躍。今季は開幕からローテーション入りして飛躍のシーズンになるかと思われたが、年明け以降は一転、なかなかチャンスをつかめていない。苦境に立たされた川崎2年目。益子は今何を思い、どんな日々を過ごしているのか──。 
※取材は2月21日に実施

こちらのインタビューは『月刊バスケットボール2025年5月号』掲載の冒頭です。全文は誌面にてご覧ください。
※以下の画像をクリックすると購入ページに飛びます。



──昨季終盤にプロ契約を勝ち取り、今季の序盤は安定して15分前後のプレータイムを獲得していました。当時の自己評価はいかがでしたか?

細かく言えばもう少しやれると感じるところもありましたが、昨季と今季の責任感が変わったことも踏まえると、良い滑り出しはできたかなとは思います。

──オフにコーチやロスターが大きく変わり、益子選手は在籍2季目ながら、所属歴としては中堅の立場になりました。「責任感」という意味ではどんな変化がありましたか?

昨季は年齢的にも最年少だったこともあって、(篠山)竜青さんやハセさん(長谷川技)が、「お前がどんどんやっていい」と言ってくれました。「ガードにボールを返すな」「ディフェンスで相手のエース級の選手にチャレンジしろ」「自分がやるという気持ちでいろ」とも言われていたので、責任感や立ち位置についてはそこまで気にしていません。それに、新加入選手もそういうスタンスでプレーしていると思います。

──今季は益子選手にとって、初のフルシーズンです。目標設定などはしていますか?

おっしゃるとおり、1シーズン過ごすのは初めてですし、それこそ、今までの僕はロスター争いをする立場でした。今季は開幕12人のロスター入りして、そこからどうアピールしてプレータイムを勝ち取っていくのかを考えています。開幕ロスターに入れたことに安心感を持っていいわけではないですが、求められていることを出た時間の中で遂行する難しさはありますね。

──学生時代の話になりますが、益子選手は福岡県の祐誠高出身ですね。福岡第一高と福岡大附大濠高という強豪がいる中で、全国大会を戦うチャンスは得られませんでした。そうしたところから、B1のプロ契約を勝ち取るに至ったプロセスはどう考えていますか?

正直、昔からずっとプロになりたいと考えていたわけではないんですよ。高校などの自分が戦っていたカテゴリーの中での上を目指してはいましたが、それこそ高校時代からプロになりたいとは思っていませんでした。まずは高校で福岡県1位になりたい、全国大会に出たいと考えていましたから。先の未来よりも目の前の目標に対して取り組んでいました。

大学でも、プロになりたいというよりも、いち早く試合に出るためには何をしたらいいのかを、先輩たちの姿を見て学んで考えていました。何回も壁に当たってそれを乗り越える。それを続けてきた結果、プロを目指せるところまで来られたのかなと思います。

──益子選手が高校を卒業した翌年から、ブロック大会優勝校の属する県にウインターカップ出場枠が追加で1つ与えられ、後輩たちが全国の舞台に立ちました。

そうなんですよね。僕らの代は九州大会まででした。僕らも3枠目だったとしても、経験値として出たかった気持ちはあります。でも、結果として今こうしてプロになれているので、高校で全国大会に出られなかったことも含めて、いろいろな経験をしてきたことが今につながっているんじゃないかなとも思います。


コービー・ブライアント風の写真にチャレンジ。ちなみに益子の誕生日はコービーと同じ8月23日だ

──祐誠高出身で現在B1でプレーしているのは、益子選手のみですか?

そうだと思います。僕の同級生の中村駿希がB3の徳島ガンバロウズでプレーしていますが、B1とB2でプレーしているのは、僕だけじゃないかな。昔、B2でプレーしていた先輩はいました。

──それは高校としても価値のあることですね。

そうですね。地元に帰ると中学や高校に顔を出すのですが、「益子選手みたいに祐誠高から拓殖大に行ってプロになりたい」と言ってくれる子がちらほらいるんですよね。どうやったら拓殖大に行けるか、どうやったらシュートが入るようになるか、そういうことを聞かれます。いろいろな人の支えによってできた、僕が通ってきた道と同じ道を歩みたいと言ってくれる子がいるのは、うれしいですよね。

──拓殖大に進学した経緯は?

めちゃくちゃ特殊なんですけど、もともとバスケは高校までと決めていて大学では勉強を頑張ろうと思っていたんです。だから、九州の大学などからはバスケで声がかかっていたのですが、断っていて。ここからなのですが、以前、月バスの編集部にいた方が祐誠のコーチとも拓殖大の池内(泰明)監督とも仲が良かったんですよ。それで、その方が福岡に来るタイミングに池内さんも福岡にいて、高校の監督と池内さんがそこで初めて会ったんです。そのときに、「祐誠には良い選手はいるか?」という話になって、月バスの方が僕のことを紹介してくれたそうです。で、じゃあ一度練習に参加してみないかとなって。僕はひょろひょろで何回もはじき飛ばされましたし、当時はシュートが特別入るわけでもなかったので、やっぱり全国レベルは違うなと思って帰った記憶があったんですけど、それでも池内さんが誘ってくれました。

──それはまさに縁ですね。大学時代の経験が、最終的に川崎でのプロ契約につながったわけですが、デビュー戦はどんな気持ちで戦いましたか?

やっぱり、メンタル的には今とは少し違いましたね。もちろん試合に出る責任感は持っていましたが、昨季のデビューしたての頃は責任感以上に、コーチ陣も含めたベンチからの後押しがありました。何でもいいからやってこいみたいな雰囲気を感じていたので、とにかく走って、声を出して、ディフェンスで足を動かして、シュートを打って...という簡単なことをやるしかない、ミスなんて仕方ない。そういうチャレンジ精神がより強かったのかなと思います。

──何かスタッツシートに残ることをしようと。

そうです。ゼロでベンチに帰ってくるのではなく、ファウルでもターンオーバーでもいいから何かをしてくるという意識でした。


笑顔の裏には壮絶な日々の努力がある

──その舞台に立つまでには、練習参加しながらスクールコーチをしていた時期もありました。プロになる過酷さはどう感じていましたか?

川崎に来る前に京都ハンナリーズに呼んでもらいましたが、そこで一つ目の挫折というか、プロってこういうことなんだと痛感しました。もちろん、甘いとは思っていなかったのですが、心のどこかで「自分はB1にいるんだから、B2でもB3でも行けるだろう」という安心感や慢心のようなものがあったんですよね。でも、現実は違ってB1だろうがB3だろうがプロはプロです。たとえ下のカテゴリーに行ったとしても結果を出さなければいけないし、必ずいられる場所ではないと改めて思いました。

──練習参加していた期間はどんな生活リズムだったのですか?


昨季の川崎は基本的に午前中にチーム練習があって、月曜日と木曜日がオフでした。なので、火・水・金はチーム練習をして、水曜日の練習後と木曜日にスクールの指導をしていました。あとはおおむねトップチームと同じ動きでしたが、アウェーゲームには帯同しないので、そのときは自分で体育館を探して体を動かしていました。川崎の練習場も基本的には使えたのですが、3x3の練習場や大学の体育館で練習することもありましたね。

──当然、練習参加していた時期は給料は発生しなかったと思いますが、経済面は大丈夫でしたか?

いやぁ、大丈夫じゃなかったですね(笑)。今思えば、どうやって生活していたんだろうというくらいでした。それこそ、京都でプレーしていたときに車が必要で買ってしまっていたので、そのローンもありまたし。ほかにも奨学金の返済や年金の納付なんかもあったのですが、絶対に今、払わなければいけないもの以外は、一旦支払いを止めていたくらいです。それでも、スクールコーチとしての給料よりも固定費を含めた出費の方が多かったので、あの頃は貯金を切り崩したり、親に仕送りをもらったりして何とか生活していました。

大学を卒業して半年くらいはそんな生活だったので、大学の同期から飲みに行こうと誘われても「今は(経済的に)無理だわ」と言って、全部断っていたくらいです。そもそも遊びに行こうなんていう考えもなくて、生活を何とかつないでいました。

──今でこそ、B1の平均年俸もかなり上がっていると思いますが、そうした華やかなステージの裏には厳しい現実があるのですね。

本当にそうですね。今はしっかりとお給料をいただけているので、夢がある職業だなと思いますが、その一方で夢をつかむまでの道のりは決して楽じゃないです。でも、夢がある分、歯を食いしばって、そぎ落とせるところはそぎ落として生活していかないといけない時期を過ごす選手もいるのかなと思います。

─────────────

残り3807文字のインタビュー内容は…

【ベンチ外が続く苦境に篠山竜青からかけられた言葉】
【苦しいときこそ、もう一歩】

続きは『月刊バスケットボール2025年5月号』をご覧ください。



写真/山岡邦彦、文/堀内涼(月刊バスケットボール)

PICK UP