デビン・バッセル(サンアントニオ・スパーズ)を育てたご両親にインタビュー
NBAの選手と聞くと直感的に子どものころから才能に溢れ、知名度抜群で高校、大学を過ごしてプロ入りを果たすイメージを持つかもしれないがデビン・バッセルはそうではなかった。時には挫折を味わいながらも、ひたむきな努力を継続した結果が今に結びついている。そんな彼を生まれてきてからずっとサポートしてきた両親、父・アンドリューさんと母・シンシアさんに親の視点から見たデビン・バッセルについて話を聞いてみた。
取材日:2024年8月2日(バッセルの母校ピーチツリーリッジ高校にて)
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バッセル夫妻と(写真/©小谷太郎)
バスケットボールは宿題をやってから
――まずデビンはいつ頃からバスケットボールをプレーしていたのでしょうか?
シンシア:彼の兄が高校時代にバスケットボールをプレーしていました。常に一緒に体育館にいたので、高校のバスケットボールを見続けていました。その影響は大きいと思います。あとデビンが生れたばかりの時に、主人がバスケットボールを彼の部屋に置いたんです。主人は常々ボールを触って、競技を理解して、とにかくバスケットボールが大好きになってほしいと言っていました。そこからデビンは、兄のようになりたいと思っていたこともあり、家の中でいつもドリブルしたり、シュートしたりしていました。1歳の誕生日に子ども用のバスケットボールゴールを買って帰ると、そのゴールに向かってシュート、ダンクを繰り返すようになりました。
――ご家族皆バスケットボールが好きだったのでしょうか?
シンシア:私は1シーズンだけプレーしたことがありますが、その後はチアリーダーをやっていました。主人はプレーしていました。
アンドリュー:私は高校、大学とプレーしていました。先ほどの妻の話に付け足しですが、デビンが2歳のときにキッチンからリビングにあるゴールまでドリブルをして、1、2とステップを踏んでレイアップシュートを決めていました。それを見て、私は妻に、彼は特別な選手になると話していたのを覚えています(笑)。デビンは、本当に小さい頃からバスケットボールに触れていました。彼が5歳のときにキッズリーグに参加させたことがあります。本当は6歳にならないと参加ができないリーグだったので、ある試合の前にコーチに「年齢の都合で自分の息子は試合に出られない」という話をしたのですが、コーチから「彼はベストプレーヤーの一人だから試合に出るよ」と言われたことがあります。そういった経験からも彼は特別なのかもしれないと感じました。
――親としてデビンをどうやってこれまでサポートされてきたのでしょうか? 当然バスケットボールが生活に占める比重は大きかったと思いますが、試合に出るのは学業でも一定の成績を収める必要があったと思います。バスケットボールと学業のバランスは大変でしたか?
シンシア:はい、学業は私がサポートしていたエリアです。私はバスケットボールの練習に行く前に必ず宿題を終わらせるように徹底していました。ちゃんとやったかどうか、私自身の目で確認していましたよ。学校でテストを控えているときはテスト勉強もみっちりさせました。バスケットボールの練習は、学校での勉強を終わらせてからという条件付きでした。そんな環境で育ったので、デビンは何事も学校の勉強を済ませてからなのだと理解していました。
アンドリュー:学業は妻が管理していました。私はデビンに「外でバスケしようぜ!」と誘ってしまっていた方なので(笑)。私が仕事から帰って来て、ヘトヘトに疲れているときでもデビンはバスケットボールに誘ってきました。親として子どもが大好きなことをサポートすることは大事なことです。子どもが関心を持っていることに、親も同じように関心を示してあげることは子どもにとって大きなサポートになります。
彼が7年生(中学1年生)のときに、8年生(中学2年生)のチームのトライアウトを受けて合格できなかった経験があります。彼にとって苦しい経験でした。学区内で1番の選手と言われていたのにチームには選出されませんでした。才能が無かったことが理由ではなかったので、親としても本人に説明することに苦労しました。デビン自身もそれを受け入れることには時間がかかりました。8年生時には前の年の苦い経験から大暴れするのではないかと思っていましたが、そうはいかず9年生(中学3年生)になってようやく彼自身の本来の姿を取り戻して改めてバスケットボールにも身を尽くすことができるようになりました。自分を元の姿に戻すために、デビンも正しいマインドセットでひたむきに努力をしましたが、当時はとてもチャレンジングな時期で我々もできる限りサポートしました。
シンシア:学業の面では、デビンはとても頭のいい子でした。成績もほとんどAでたまにBを取る程度で、とても明るい子でした。スポーツをするかどうかによらず大学には行くべきという話をしていましたし、成績も良好だったので、これまで通り学業にも力を入れるように指導していました。
――高校でデビンは大活躍しましたが、大学のリクルーティングはどのようなものだったのでしょうか? 大学が関心を持ってくれることはありがたい反面、どこの学校に進学するのか決める過程はストレスに感じることもあるのではないでしょうか?
アンドリュー:デビンのケースは、11年生(高校2年)になる時点ではあまり多くの大学が関心を持ってくれていなかったので正直タフでした。彼自身もとても落胆していた時期もあります。12年生(高校3年生)になるときに、フロリダ州大が興味を持ってくれてオファーをしてくれました。少し変わった体験でした。その直後から、色々な大学からコンタクトがありました。ジョージア大やジョージア工科大のコーチから私に電話がかかってきました。今まで彼らの大学の近くでプレーしていたのに何のコンタクトもなく「息子さんとお話できないでしょうか?」と急に言われました。あとデビンにとってACC(Atlantic Coast Conference)でプレーすることも重要でした。フロリダ州大はACCに属していたので、素晴らしい機会でした。デビンは高校時に同学年の選手ランキングで200番台だったこともあって、あまり大学からのリクルートはされませんでした。フロリダ州大への進学が決まったときも、彼らは1年生時にはレッドシャツ扱いにすることを検討していました。それに関しては妻が「そんなことはさせないわ」と少し腹を立てていました(笑)
――ちなみにフロリダ州大はどういったところを評価していたのだと思いますか?
アンドリュー:コーチのチャールトン・ヤングに才能を見極める目があったのだと思います。今日、実はデビンの高校時代のコーチも来ているのですが、ヤングHCが始めてデビンのプレーを観たときの思い出話をしていました。デビンがコートを3~4往復したあと、すぐに彼にオファーをすると決めたそうです。デビンは上背があって走れて、シュート力もIQもあり、バスケットボール選手に必要な特性が全てそろっていました。当日、仕事中でしたが興奮したヤングHCから私に電話がありました。特別な瞬間でした。
取材・文/小谷太郎(Paint It Silver &Black!)
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