月刊バスケットボール5月号

「カリの奇跡」 – 1975FIBA女子バスケットボール世界選手権の記憶

 1975年10月3日、カリ(コロンビア)のヒムナシオ・デル・プエブロというアリーナで、バスケットボール女子日本代表がイタリアを相手に歴史的な大一番に臨んでいた。女子バスケットボール世界選手権(現在の女子ワールドカップ)の決勝ラウンド。この試合に勝てば同大会でのメダル獲得が決まる。それは同時に翌年モントリオールで開催されるオリンピックへの出場を意味していた。

 

 当時のフォーマットは現在と異なり、出場12チームがまず4チームずつ3つのグループに分かれて総当たりのグループラウンドを行い、それぞれの上位2チームに開催国コロンビアを加えた7チームで決勝ラウンドを戦うというもの。決勝ラウンドも総当たり戦を行った(グループラウンドで対戦したチームとの再戦は行われない)。


☆1975女子バスケットボール世界選手権の日本代表ロスター

#4 林田和代
#5 古野久子
#6 青沼令子
#7 大塚宮子
#8 生井けい子
#9 宮本輝子
#10 橋本きみ子
#11 山本幸代
#12 門屋加壽子
#13 佐竹美佐子
#14 脇田代 喜美(キャプテン)
#15 福井美恵子


日本はアメリカとのグループラウンド初戦を73-71の1ゴール差で制すると、続くチェコスロバキア戦には70-58で快勝。オーストラリアに60-62で敗れたものの、グループCをトップで通過して決勝ラウンドに駒を進めた。その決勝ラウンドでも韓国、メキシコを撃破。しかしイタリアとの一戦は、当時世界最強を誇ったソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連=1991年に解体され、現ロシアほかの国が生まれている)に敗れた翌日で、コンディション的には疲労を引きずっておりベストとは言えない状態だった。


ユリアーナ・セミョーノワという身長210cmのビッグセンターを擁する世界最強のソ連を相手に、日本がどう臨むべきかということについて、対戦前にチームの中で話し合いがもたれたという。チームを監督として率いた尾崎正敏氏とすれば、「日本のバスケットにとって再び来るか来ないかわからないチャンス」、「タイトルをかけて優勝を争える機会を得ただけでも幸せ」。しかしソ連との戦いを捨て2位狙いに徹すればイタリアとの試合には良いコンディションで臨むことができ、勝機が増えるだろう…。そんなとらえ方もありうる状況だ。

 

 翌年のモントリオールオリンピック出場という大きなプライズもかかってくる。しかしチームで話した結果は、ソ連に全力でぶつかろうということだった。最強相手に自らの力を証明するとともに、成長のステップとしたい。プレーヤーたちも「向かっていきたい」という思いだった。尾崎監督にも選手たちにも自信があればこその決断だったに違いない。

 

 

激闘の末イタリアを撃破、W杯銀メダル獲得


イタリア戦は、「カリの奇跡」と形容したくなる激戦になった。前後半20分制だった当時の試合の中で、日本は前半半ばに18-6とリードを奪ったが、やはりコンディションはベストではなく徐々にプレーの精度が落ちていく。前半終了時点では31-29まで迫られ、後半半ばには逆に35-45と10点差を追う展開に。それでも日本はディフェンスから息を吹き返し、9-2のランでタイムアップ5分前までに44-47と追い上げる。


残り8秒からは劇的なドラマが待っていた。48-49と日本が1点差を追う状況でイタリアがフリースローを得る。3Pショットがまだ導入されていなかった当時、仮に2本決められて3点差となっていたら、残り8秒は絶対的なイタリア優位となっただろう。かつイタリアは、フリースローを放棄してそのままボールをキープすることもできたのだ。しかしイタリアはフリースローを選択、しかもシューターとなったティジアナ・ファッソの2本のアテンプトは、どちらもミスに終わる。

 

 こぼれたブリースローのリバウンドを古野がつかみ、8秒の時間とともにボールが日本に返ってきた。古野は宮本にパスをつなぐ。宮本はフロントランナーになった脇田代にさらにボールを送った。ゴールに向かう脇田代。そこに猛然と追いかけてきたイタリアのディフェンダーが脇田代を羽交い絞めにするようなファウル…。


残り3秒、今度は日本のキャプテンを務める脇田代がフリースローを得ることとなった。1本目が成功し、2本目もネットに吸い込まれる。50-49で日本勝利。日本はこの時点でまだ1勝も挙げていなかったコロンビアとの対戦を残していたが、仮に最終戦を落としてもイタリア、チェコスロバキアには直接対決で勝っており、タイブレーカーをクリアでき、2位以上が決まった(日本は最終的にコロンビアにも勝利した)。

 


脇田代の決勝フリースローの場面(写真/橋本きみ子さん[現姓長井さん]寄贈の資料より)

 

 この勝利の物語は、様々な要素が積み重なった奇跡だ。前年の第7回アジア競技大会で金メダルを獲得した日本は、実はその時点で世界選手権への出場権を持っていなかった。しかし、当時のウィリアム・ジョーンズFIBA事務総長が、世界選手権出場要件となっていなかったこの大会での日本の戦いぶりと、日韓戦で残り1秒から生井が成功させた劇的な逆転弾を高く評価し、コロンビア行きを認めたという背景もあった。


その末に、アメリカをはじめとした強豪を次々と倒してつかんだ堂々の銀メダルとオリンピック出場権。身長162cmの生井は最優秀選手賞に輝いた。1976年のモントリオールオリンピックは女子バスケットボールが初めて登場したタイミングだったが、日本は一躍メダル候補として世界の注目を浴びる存在となったのだ。


☆日本の試合結果
グループラウンド
9月23日 アメリカ×71-73〇日本
9月24日 チェコスロバキア×58-70〇日本
9月25日 日本×60-62〇オーストラリア
決勝ラウンド
9月28日 日本〇89-62×韓国
9月29日 日本〇80-49×メキシコ
10月2日 ソ連〇106-75×日本
10月3日 イタリア×49-50〇日本
10月4日 コロンビア×65-97〇日本

 


世界選手権2位以上を決めた瞬間、歓喜の女子日本代表(写真/橋本きみ子さん[現姓長井さん]寄贈の資料より)

 

2022年、歴代プレーヤーの思いをつなげて金メダル獲得へ


FIBA女子ワールドカップ2022に向けた女子日本代表候補のオンライン会見で、キャプテンを務める高田真希は「自分たちがこういう場にいられ、活躍の場があるのは、先輩たちや歴史を築いてくださった方たちがいるから。直接かかわっている先輩はもちろんですが、モントリオールも含め世界選手権で銀メダルを獲った歴史は自分も把握しています」と大先輩たちへの思いを言葉にしている。「その歴史があるから今があります。その方々にも感謝をしていきたいです」。感謝を伝えるために、高田は「その歴史を破っていくことも大切」と強い意欲を語った。

 

 東京2020オリンピックで銀メダルを獲得し、FIBAアジアカップ5連覇を成し遂げても、日本は前評判としてアンダードッグの立場。しかしそれはあくまで周囲の見方であり、チームとしては金メダル獲得を目指している。「固定概念を外して高い目標を持って戦うことは今の自分たちにできること。それで結果を出すことによってOGの方たちが喜んでくださったり、日本代表にいらっしゃった方々が胸を張って『私はバスケットボールの元女子日本代表だったんだよ』と言ってくださったら、自分たちにとってもすごくうれしいです。結果を出すことによって今までの歴史を作ってくださった方々に喜んでいただけるんじゃないかと思っています」


カリの地で勝利を決定づけた脇田代キャプテンの思い、数えきれない名プレーヤーや名コーチたちの情熱が、今とこれからを背負う高田たちの力にも間違いなくなっている。


取材・文/柴田健
(月刊バスケットボール)



PICK UP