月バスTOPICS

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2019/05/08

今週の逸足『NIKE AIR FLIGHT』

 早くから母国リーグで頭角を現したペトロヴィッチは、19歳のころには米国のカレッジから声がかかる選手となり、1986年にはNBAドラフト3巡目(全体60番目)でブレイザーズから指名を受けている。だが時代は米ソ冷戦の真っただ中。旧ソ連と、その影響下にある社会主義諸国の選手が米国のプロリーグに移籍することは “亡命”にも似た政治的な意味を持っていた。当時はまだ五輪へのプロ選手の参加が認められておらず、加えてユーゴスラビア当局も28歳未満の選手の海外移籍を禁じていた。だがレアルはこのルールをかいくぐり、ソウル五輪終了後の88年、400万ドル(当時のレートで約8億8000万円)の契約金でペトロヴィッチの獲得に成功。イタリアのスポーツブランド「クロノス」がさっそくシグニチャーシューズを発売するほど、すでに彼の名声は欧州全土にとどろいていた。
 

 このころ、すでに共産圏諸国には改革・解放の風が吹き始めていた。粘り強く交渉を継続していたブレイザーズは1989年、レアルに違約金を払ってまでペトロヴィッチにNBA入りを決断させる。すると同年、堰(せき)を切ったようにブラデ・ディバッツ(ユーゴスラビア。現キングスGM)がレイカーズへ、アレクサンドル・ボルコフ(ソ連)がホークスへ、そしてシャルナス・マーシャローニス(リトアニア)がウォリアーズへ入団する。それ以前にもNBAにはデトレフ・シュレンプ(元マブス、ソニックスなど)ら外国籍・海外出身選手は存在したが、いずれも高校や大学から米国でプレーした経験を持つ選手ばかり。米国外でバスケを学んだペトロヴィッチらのプレーはNBAという舞台で化学反応を起こした。現在では多くの選手が使うユーロステップも、このころ持ち込まれたテクニックだ。


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