月刊バスケットボール5月号

今週の逸足『NIKE AIR FLIGHT』

バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした一品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回取り上げるのは、NBAで最初に成功を収めたヨーロッパ出身の選手、ドラゼン・ペトロヴィッチが愛用した逸足に迫る。


NIKE AIR FLIGHT

ナイキ エアフライト
 

文=岸田 林 Text by Rin Kishida
 

バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした一品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回取り上げるのは、NBAで最初に成功を収めたヨーロッパ出身の選手、ドラゼン・ペトロヴィッチが愛用した逸足に迫る。
 

 スロベニア出身のルーキー、ルカ・ドンチッチ(マーベリックス)の大活躍は、今シーズンのNBAにおけるトピックの一つだろう。ユーロリーグ最年少MVPの実績はあるものの、ドラフト当時まだ19歳。マブスの大先輩で同じく欧州出身のダーク・ノヴィツキーの例から、NBAに順応するまでには数年を要するだろうという声も聞かれた。だがふたを開けてみれば、1月21日のバックス戦では史上二番目の若さでのトリプルダブル、6日後のラプターズ戦では史上初となる十代での30得点以上でのトリプルダブルという快挙を達成。再建中のチームにあって、新人王候補最右翼の活躍を続けている。
 

 ドンチッチがNBA入りするまでプレーしていたのはスペイン・リーガACBのレアルマドリード・バロンセスト(以下レアル)。1931年のクラブ創設以降、国内リーグ優勝34回、ユーロリーグ優勝10回を誇る名門で、これまでも多くのNBA選手を輩出している。その中で、あえて特筆すべきOBを一人だけ挙げるとすれば、クロアチア(当時ユーゴスラビア)のガード、ドラゼン・ペトロヴィッチ(元ブレイザーズ、ネッツ)だろう。彼がレアルでプレーしたのはNBA入りする直前の1シーズンだけだが、1989年の欧州カップウィナーズカップ決勝では一人で63得点を記録するなどゲームを支配し、チームに初タイトルをもたらしている。

 早くから母国リーグで頭角を現したペトロヴィッチは、19歳のころには米国のカレッジから声がかかる選手となり、1986年にはNBAドラフト3巡目(全体60番目)でブレイザーズから指名を受けている。だが時代は米ソ冷戦の真っただ中。旧ソ連と、その影響下にある社会主義諸国の選手が米国のプロリーグに移籍することは “亡命”にも似た政治的な意味を持っていた。当時はまだ五輪へのプロ選手の参加が認められておらず、加えてユーゴスラビア当局も28歳未満の選手の海外移籍を禁じていた。だがレアルはこのルールをかいくぐり、ソウル五輪終了後の88年、400万ドル(当時のレートで約8億8000万円)の契約金でペトロヴィッチの獲得に成功。イタリアのスポーツブランド「クロノス」がさっそくシグニチャーシューズを発売するほど、すでに彼の名声は欧州全土にとどろいていた。
 

 このころ、すでに共産圏諸国には改革・解放の風が吹き始めていた。粘り強く交渉を継続していたブレイザーズは1989年、レアルに違約金を払ってまでペトロヴィッチにNBA入りを決断させる。すると同年、堰(せき)を切ったようにブラデ・ディバッツ(ユーゴスラビア。現キングスGM)がレイカーズへ、アレクサンドル・ボルコフ(ソ連)がホークスへ、そしてシャルナス・マーシャローニス(リトアニア)がウォリアーズへ入団する。それ以前にもNBAにはデトレフ・シュレンプ(元マブス、ソニックスなど)ら外国籍・海外出身選手は存在したが、いずれも高校や大学から米国でプレーした経験を持つ選手ばかり。米国外でバスケを学んだペトロヴィッチらのプレーはNBAという舞台で化学反応を起こした。現在では多くの選手が使うユーロステップも、このころ持ち込まれたテクニックだ。

 ブレイザーズでは十分なプレータイムを得られなかったペトロヴィッチは、1990-91シーズン途中でネッツにトレードされると、欧州最高選手の実力をいかんなく発揮。翌1991-92シーズンは全試合に出場し、一試合平均20.6得点でチームをけん引した。欧州では主にリーボック「BB5600」などを履いていたが、NBA入り後の彼はナイキの「エアフライト」シリーズを愛用。どちらかといえばハイカットのシューズが好みだったようで、クロアチア独立後の初の五輪となったバルセロナ五輪決勝ではナイキ・エアバリスティックフォースを着用し、米国代表のドリームチームを相手に一人で24得点と気を吐いた。
 

 1993年6月7日、NBA4年目を終えたばかりのペトロヴィッチは、ドイツでの休暇中にアウトバーンでの交通事故で命を落とした。まだ28歳という若さだった。その突然すぎる死が報じられると、世界のバスケットボールファンが悲しみにくれた。ネッツは彼の背番号3を永久欠番とし、マクドナルド選手権のトロフィーには彼の名前が冠されるようになった。 ペトロヴィッチと“1989年組”の海外選手たちが切り拓いたNBAへの道は、現在では日本も含めたアジアやアフリカも含めた全世界に広がった。NBAによれば、今シーズン開幕時点でロスターに登録されている米国外選手は、42ヶ国・地域から来た計108名。リーグ全体で100名を越え、かつ全30チームに最低1名以上在籍するのは5年連続で、もはや出身地域で選手を区切ることに意味はなくなりつつあるといっていい。だがその原点は、様々な苦難を乗り越えてNBA入りし、どんな相手にもアグレッシブに立ち向かった、たった一人の選手だった。全世界の選手に「NBAでプレーすること」を強く意識させたペトロヴィッチのパイオニア精神は、これからも語り継がれることだろう。
 

月刊バスケットボール2019年5月号掲載

◇一足は手に入れたい! プレミアムシューズ100選

http://shop.nbp.ne.jp/smartphone/detail.html?id=000000000593

(月刊バスケットボール)



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