月刊バスケットボール8月号

今週の逸足『NIKE AIR ZOOM FLIGHT 5』

バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回取り上げるのは、ジェイソン・キッド、田臥勇太という名ポイントガードが愛用した『ナイキ エア ズーム フライト 5』。最初のリリースは1996年だが、その後、廃盤となりつつも2度に渡って復刻版が出るというストーリーを持つバッシュだ。

文=岸田 林 Text by Rin Kishida 

写真=中川 和泉 Photo by Izumi Nakagawa
 

 バスケットボールシューズの歴史において、大きなインパクトをもたらした逸品(逸足)を紹介するこのコーナー。今回取り上げるのは、ジェイソン・キッド、田臥勇太という名ポイントガードが愛用した『ナイキ エア ズーム フライト 5』。最初のリリースは1996年だが、その後、廃盤となりつつも2度に渡って復刻版が出るというストーリーを持つバッシュだ。

7月、渡邊雄太(ジョージ・ワシントン大学卒)がグリズリーズとの2ウェイ契約を勝ち取り、日本人2人目のNBAプレーヤーへ大きく前進した。彼がレギュラーシーズンのコートに立つ日がいつ来るのか、そしてそのとき、彼がどんなシューズ選ぶのか、今から興味は尽きない。
   

 インディアナポリス・スター紙のJ・ミッチェル氏のツイッターによれば、ナイキはアシックスとの争奪戦の末、すでに渡邊と7年契約を結ぶことに成功したようだ。サマーリーグを通じて彼が着用したのはナイキ・ハイパーダンク2017。仮に開幕ロスターを勝ち取った場合、今夏に発売されるであろうハイパーダンクX(2018)の着用が有力視される。  

 日本人初のNBAプレーヤーは言うまでもなく、2004‐05シーズンにサンズで4試合に出場した田臥勇太(現・栃木ブレックス)だ。NBAの初舞台に田臥が選んだのは、能代工業時代から愛用していたナイキ・エアズームフライトファイブだった。

 同モデルは、もともとジェイソン・キッド(前バックスHC)のシグニチャーモデルとして1996年に登場した。シリーズとしては3作目だが、当時マブスでプレーしていたキッドの背番号5にちなみ「ファイブ」と名付けられた。

 発売直後にキッドがサンズにトレードされ、背番号が32になってしまうというハプニングはあったものの、シューズそのものは大ヒット。キッド本人もかなりのお気に入りだったようで、新作の発売後もたびたび同モデルを着用している。

2001年、ネッツ移籍に伴いキッドの背番号が5に戻ったときには、早くもナイキから復刻版がリリースされた。
 

 一方1996年当時の日本は空前のハイテクスニーカーブーム。ファッション誌の巻頭特集は毎号、エアマックス、エアジョーダンなどの新作で埋め尽くされた。エアズームフライトファイブもストリートでの人気が先行し、一時期はプレミア価格で取引されるほどだった。だがそんなナイキ人気とは裏腹に、シリアスプレーヤー、特に中学・高校の選手が着用するバッシュといえば、アシックス、ミズノのいずれかが主流だった。  

 そんな時代にあって田臥勇太は、能代工業がナイキのサポートを受けていたこともあり、2年生となった1997年からエアズームフライトファイブを着用しはじめる。よほど足にフィットしたのだろう、以降彼は卒業までほぼすべての試合を同モデルでプレーし、前人未到の高校9冠を達成した。

 進学したブリガムヤング大ではチーム契約でアディダスの着用が義務づけられていたが、練習などの非公式な場では引き続き同モデルを着用。トヨタに入団した2002年には、彼のアドバイスにより開発された日本の“ブカツ”プレーヤーのためのモデル、エアズームスイフトが登場したのだが、田臥本人は頑ななまでにエアズームフライトファイブを履き続けた。
 

 2003年、田臥はトヨタを退団しマブスのサマーリーグに参加。挑戦の“相棒”は当然、エアズームフライトファイブだった。
 その後ナゲッツのトレーニングキャンプ、ABAロングビーチ・ジャム(現Gリーグ・ノーザンアリゾナ・サンズ)でのプレーを経て、2004‐05シーズン、田臥はようやくサンズの開幕ロスターの座を射止める。この間、田臥の一挙手一投足は日本でも大きく報じられ、自然と足元にも注目が集まった。するとナイキは、2度目となる同モデルの復刻を決める。現在のように“レトロ”のリリースが一般的でなかった当時、数年前に廃番となったバッシュを、しかも数年のうちに2度も復刻するというのは、極めて異例なことだった。

 日米の天才ポイントガード2人に愛されたエアズームフライトファイブはいつしか、定番的バッシュへと昇華していた。一時期PEAKと契約していたキッドも、2011年にナイキと再契約すると、さっそく同モデルのマブスカラーのPEを着用。現役最晩年となった2012‐13シーズンの開幕前のユニフォーム撮影でも、彼が選んだのはニックスカラーの同モデルだった。
 

 2008年にリンク栃木ブレックスに入団し日本復帰を果たした田臥は、その後もエアズームアップテンポファイブ、エアズームブレイブなどの後継モデルを開発・着用し、ズームエアの伝道師であり続けた(ここ数年はナイキ・ハイパーダンクシリーズなどを着用)。2011年にNike iDでエアズームフライトファイブがオーダー可能になると、かつてキッドや田臥に憧れた日本の現役プレーヤーからの注文が相次いだ。その人気は、単なる「90年代ハイテクバッシュの復刻」とは一線を画すものだった。
 

 さて、渡邊雄太である。彼の置かれた状況からすれば、シグニチャーモデルの発売はまだ遠い先の話だろう。だが彼の活躍が、後に続く日本の若者たちの意識と、日本のバッシュ事情を大きく左右することは間違いない。かつて田臥の着用したエアズームフライトファイブは、「挑戦のシンボル」として、長くコートで愛される存在となった。この冬、渡辺の履くバッシュは、我々にどんな夢を見せてくれるのだろうか。  
 

月刊バスケットボール2018年10月号掲載

◇一足は手に入れたい! プレミアムシューズ100選

http://shop.nbp.ne.jp/smartphone/detail.html?id=000000000593
 

(月刊バスケットボール)


 



PICK UP