月刊バスケットボール6月号

Bリーグ

2020.03.08

『Mr.ビーコル』蒲谷正之(元横浜)の順風満帆な第二の出航

 Bリーグ横浜ビー・コルセアーズの創設期を支えた蒲谷正之。昨シーズン限りでユニフォームを脱いだ彼のバスケットボールキャリアは決して順風満帆ではなかっただろう。

 

 横浜商大高から日本大を経て、最初に所属したチームは三菱電機(現名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、2005年のことだ。

 

「幸運にも三菱電機さんから声をかけてもらって、お世話になることにしました。このシーズンからbjリーグが開幕したこともあり、bjリーグでのプレーも考えていたんです。バスケで食っていきたかったので。当時の感覚で言えば、やはりJBLの企業チームに行けない選手がbjリーグでプレーするといった感覚でしたし、企業チームであっても、いわゆる契約選手ですからプロですよね」と蒲谷は振り返る。

 

 

 ドライブやアウトサイドシュートなど得点力のある蒲谷だが、183cmの身長はトップリーグのシューティングガードとしてはサイズ不足と見られていた。そこそこのプレータイムは得ていたものの、より活躍の場を求めて2007年からbjリーグの富山グラウジーズへ移籍した。蒲谷の得点能力を知る元三菱電機の福島雅人がヘッドコーチを務めており、ラブコールを受けたからだ。その後、再び三菱電機に戻ったが、2011年には地元横浜に誕生したばかりの横浜ビー・コルセアーズに入団した。以降7年間、横浜でプレーすることになるのだが、2シーズン目には優勝を果たし、ファイナルで35得点をあげてプレーオフMVPを獲得。蒲谷が「Mr.ビーコル」と称された所以である。

 

 しかし、このとき実はチームは経営危機に直面していた。

 

「給料の遅配などもありましたね。僕はベテランの部類で、地元のチームですし、金銭的には何とかなったので、若いヤツから給料を支払ってくれなんて球団に頼んだり…。それでも、選手たちの試合に対するモチベーションは落ちていなかったですね。優勝すれば良くなるんじゃないか、そんな期待もあったのかもしれませんが、それよりも絶対に勝ちたいという気持ちが強かった。前年にファイナルで敗れていたので、何が何でも優勝したいという気持ちでした」

 

 リーグ参入2シーズン目にして優勝を遂げたものの、チームは経営体制の刷新を迫られた。その後、選手強化に資金が回せない時期が続き、上位進出を果たせないチームを、やはり地元出身の山田謙治(現アシスタントGM兼コーチ)とともに支え続けた。

 

「横浜で引退しようと考えていたんです。チームのスポンサー企業からも、それならうちで働いてくれないかといった話もいただいていたんですけど。横浜の元ヘッドコーチで、信州(ブレイブウォリアーズ)のヘッドコーチになった勝久マイケルから、どうしてもうちでやってほしいって。チームをB1に上げたいって。本当に何度も何度も説得されて。結局、そこまで必要としてくれるならと、移籍することにしました。横浜での最後のシーズンはケガもあって選手として不完全燃焼だったというのもありましたね」

 

 昨シーズン、優勝を知るベテラン・蒲谷を得た信州は、みごとにB2で優勝を果たした。しかし、ライセンスの問題でB1に上がることは叶わなかった。蒲谷はシーズン終了後に引退を表明、昨年の11月16日には横浜ビー・コルセアーズにより引退セレモニーが行われ、蒲谷の背番号「3」、山田の背番号「13」が、クラブ初の永久欠番となった。

 そんな蒲谷は、今、『プルデンシャル生命保険株式会社』でライフプランナーとして働いている。生命保険や金融などの知識をもとに、人生設計を金銭面からアドバイスする仕事であり、バスケットボール、スポーツとはまったく接点がない仕事である。

 

「学生時代には現役引退後は指導者の道も考えていて、教員の資格も持っていたのですが、現役生活を続けていくうちに考え方も変わってきましたし、タイミングもあって、違う世界でやってみたいと思うようになったんです。知り合いから誘われていたこともあって、引退後すぐに今の会社を受けることにしたんです」

 

 とは言うものの、それは簡単なことではない。ライフプランナーは個人事業主として、会社に所属する。そしてライフプランナーとして活動するためには、保険知識や金融知識など幾つもの資格を取得しなければならないのだ。それも業界トップクラスの同社においては、ただの合格ではダメで、どれも満点に近い成績が求められた。蒲谷は1か月の間に、必要な試験をすべて合格、それも100点満点でクリアした。

 

「あんなに勉強したのは初めての経験ですね。バスケばっかりやってきましたから」と笑いながら話すも、彼の歩んできたキャリアがずいぶん役に立ったようだ。

 

「実は横浜時代には、副業的にバーを経営していて。最初は選手たちが気兼ねなくくつろげる場をと思っていたのですが、そのうちブースターの皆さんも集まるようになって。小さな店でしたが、いつもいっぱいでした。あとはプロ選手としてやってきたことや、父が亡くなったこと、母親の介護などの経験もあります。保険やら税金やらといったことを、自分ですべてやらなければなりませんでしたから…。チームの経営難もありましたし、お金のこと、経営のことなどいろいろなことを調べました。そうした素地みたいなものがあって、基本的な世の中の仕組みや、専門用語などを結構知っていましたから」

 

 

 無事にライフプランナーとしての資格を取得した蒲谷は、息つくことなく猛烈な営業成績を残しているという。それは彼が所属する支社32年間の歴史を塗り替えるほどのもので、新人社員の初月度の最高記録を更新してしまったというのだ。もともと人付き合いを大切にし、プロ選手をしていただけに顔が広いとは言うものの、それほどのモチベーションを生み出しているものは何なのか。

 

「この仕事をしたかった一つの理由に、プロ選手たちに、しっかりとした保険があればいいなと思っていたからなんです。日本のバスケは、プロになってから日が浅いですよね。引退後の受け皿だってしっかりとしていないですし、何の保障もないんです。自分は家庭もありましたから、比較的しっかりと考えてやってきたほうだと思いますが、若い選手など、ちょっとお金をもらうとパッと使っちゃったりしているのを見てきましたから。NBAなどでは、選手の年金があるとも聞いていますし、そうした仕組みを作れないかと考えているんです。でも、いきなりそんな大きな話をしても、会社を説得するにしても、まずは自分が成績を残さなければ、だれも本気で耳を貸してくれないじゃないですか」

 

 今は個別に選手たちの相談に乗り、コンサルティングしている状況だが、「選手会なども巻き込んで、プロ選手たちが安心してプレーできる環境を作れたらいいですね」と夢は広がる。直接面識はなくても、人づてに紹介される選手も増え、その必要性をさらに感じていると言う。近い将来、元プロバスケ選手による、プロバスケ選手のためのファイナンシャル・プランが登場するかもしれない。それをオーガナイズしていくことこそ、日本のバスケットボール界の荒波を乗り越えてきたプロフェッショナルが、第二の人生に選んだ天職に違いない。

 

(月刊バスケットボール)



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