その他の海外

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2022/06/21

1997年6月21日、萩原美樹子が記した歴史

 1997年6月21日、WNBAが最初のシーズンをスタートさせた25年前のこの日は、日本の女子バスケットボール界から初めて海外リーグに挑戦した萩原美樹子(現東京羽田ヴィッキーズHC)が、サクラメント・モナークスの一員としてその舞台で公式戦でデビューを果たした日だ。ユタ州ソルトレークシティーでの、ユタ・スターズ(現ラスベガス・エイセズ)とのアウェイゲームだった。


 会場は他ならぬデルタ・センター。1997年の6月、デルタ・センターといえば、オールドスクールのNBAファンにはおなじみのエピソードが生み出された舞台設定だ。6月11日に行われたNBAファイナル第5戦、マイケル・ジョーダンが原因不明の体調不良の中で38得点を記録してシカゴ・ブルズを90-88の勝利に導き、チームと自身にとって5度目の王座に王手をかけた試合 - "Flu Game(フル・ゲーム)" - からわずか10日後。ジョーダンとブルズ、そしてカール・マローンとジョン・ストックトンが率いたジャズの激闘の余韻がまだ町を包んでいただろうその中で、その試合と同じ会場で萩原はWNBA創設シーズンの開幕戦で日本人初のWNBAプレーヤーとしてデビューした。

 

 前年のアトランタオリンピックで、7位入賞を果たした日本代表の得点源として平均17.8得点、3P成功率44.2%(ともに大会全体の5位)を記録した萩原は、WNBA初のドラフトでサクラメント・モナークスから全体14位指名を受け、チームに加わった。日本人としてWNBAドラフトで指名を受けたのは、いまだに萩原ただ一人。当時の記事や著書には、バスケットボールの本場アメリカの新設プロリーグで挑戦できる機会がまさか自分に巡ってこようとは、予想だにしていなったことが記されている。

 

 萩原のデビュー戦は、16分32秒の出場時間で3Pショット2本を含むフィールドゴール4本を放ち、そのうち3Pショット1本を成功させて3得点。スターターの5人に次ぐ6番目に長い出場時間を得て、70-60の勝利に貢献した。資料を読み返すと、最初の試合で距離のある3Pショットを決められたことを素直に喜ぶとともに、自身の活躍の幅を広げることへの意欲を高めた試合でもあったようだ。


 萩原がWNBAでプレーしたのは1997年、1998年の2シーズン。最初の年はモナークスからフェニックス・マーキュリーへのトレードも経験した。2チームで出場したのは26試合で、スターターも7回あった。平均出場時間13.2分、2.9得点、0.9リバウンド、0.8アシスト。7月7日にデルタ・センターで行われたスターズとの試合では、フィールドゴール5本中4本、3Pショット2本中1本を決めてWNBAでのキャリアハイとなる9得点を記録した。プレーオフでもセミファイナル1試合に出場して2得点を挙げている。


 翌1998年、マーキュリーの一員として再びWNBAのコートに立った萩原は、10試合に出場して2.2得点、0.2リバウンド、0.3アシストという数字を残し、WNBAでのキャリアを終えた。2シーズンの通算では、36試合で2.7得点、0.7リバウンド、0.6アシストという数字を残した。言葉と文化の違いという高い壁がある上、前例のない挑戦への体当たりでもあった。25年前の6月21日、萩原が残した記録は、その一つ一つが日本の女子バスケットボール界を前進させた歴史の一歩だ。

 

 2年間に渡るWNBAでの挑戦を終え帰国した萩原は、1998-99シーズンをジャパンエナジーの一員として過ごし、皇后杯獲得と日本リーグ準優勝で現役生活を締めくくった。その後は女子日本代表アシスタント、アンダーカテゴリーのヘッドコーチなど、指導的な立場で日本の女子バスケットボール界の成長と飛躍に貢献している。

 

FIBA U18アジア選手権でU18女子日本代表を率いた際の萩原(写真/©FIBA.U18Asia2018)

 

 

文/柴田 健(月バス.com)

(月刊バスケットボール)

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