月刊バスケットボール5月号

今週の逸足(CLASSIC KICKS)Vol.1-1

  Vol.1 Adidas SUPERSTAR アディダス スーパースター   文=岸田 林   1970年といえば、「全国実業団バスケットボールリーグ」が「バスケットボール日本リーグ」に改組され、アジア選手権で女子日本代表が初優勝した年だ。ちなみに、現在JBAのエグゼクティブアドバイザーを務める川淵三郎氏はこの年、サッカー選手として、古河電工を現役引退している。そして、世界中で愛され続けている定番バッシュ、アディダス・スーパースターが登場したのは、この1970年のことだ。   1950~60年代にかけ、NBA選手が着用していたのはコンバース・オールスターやプロケッズ・ロイヤルに代表されるキャンバス素材のバッシュだった。そんなとき、西ドイツ(当時)のスポーツブランド、アディダスは1960年、初のオールレザーバッシュで、のちのスーパースターの原型となるシューズ、プロモデルを開発。当時コンバース・オールスターが7ドル(当時のレートで約2,520円)ほどだったのに対し、プロモデルは15ドル(同約5,400円)という高級品だった。   その後少しずつ改良が進められ、1969年には象徴的なシェルトゥ(つま先のガード)を装備。1970年にようやく現在知られるスーパースターとほぼ同じ形のモデルが発売され、その優れた耐久性や、ヘリンボーンソールのグリップ性、足なじみのよさでNBAを席巻することになる。   そして1971年、初めてアディダスがNBA選手個人と契約を結んだのが、プロ入り直後にも関わらず圧倒的な得点力でリーグを支配していたルー・アルシンダー。のちのカリーム・アブドゥル=ジャバー(当時バックス)だ。まだアスリートが金銭をもらってシューズを着用することが珍しかった時代、アディダスの契約金は破格の2万5,000ドル(同約785万円)だったという。この1970-71シーズン、ジャバーはスーパースターを着用し、創立3年目のバックスを優勝に導いている。その後わずかな期間だけプロケッズと契約したこともあったジャバーだが、ふたたびシューズをアディダスに戻すと、以降、長きにわたり、アディダスの『顔』として活躍し続けた。 (つづく)   写真=中川和泉 (月刊バスケットボール2017年1月号掲載)

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