2006.05.01

カール・マローン、ジャズの永久欠番に【HOOP2006年6月号掲載】

>>最後まで、いつもの頑固で負けず嫌いな“マローン節”で通したメールマン

 3月23日にカール・マローンの永久欠番セレモニーが行われ、「32」がジャズの永久欠番となった。ふだんはめったに表舞台に出てこないジョン・ストックトンも、かつてのパートナーのために珍しくネクタイにスーツという正装で出席、セレモニーではスピーチまでしていた。現役時代にはいつもポロシャツにジーンズ姿だったストックトンにとっては、ふだんすることがないネクタイをするというだけでマローンに対する精いっぱいの誠意だったのだが、当のマローンがTシャツにカウボーイハット姿だったというのが、いかにも彼らしい。
 それにしても、マローンは何度取材しても、どこかつかみどころがない人だった。英語の表現で『木端を肩に乗せた(chip on his shoulder)』という言い回しがある。世間に対して不満を持っているかのように、常にケンカ腰な雰囲気を持つ人を表す表現だが、第一印象のマローンは正にこのタイプ。取材しようとロッカールーム前に座るマローンに近づくと、ギロっと上目遣いに「何の用だ?」とニラまれ、少しでも気に食わない質問があると、何でそんなことを聞くのかとばかりに目を丸くし、首を振ってみせる。ただでさえ威圧感のあるあの身体でそれをやられるのだから、慣れるまでは取材で話しかけるのもかなり勇気がいった。
 そうかと思うと、記者が喜ぶような率直なコメントを多く出してくれたのもマローンだった。気分が乗っている時は取材でいろいろ聞かれることを楽しんでいるようなところもあり、時には、取材者と試合をしているかのように負けず嫌いの面を出したり、あるいは別の時には涙をぬぐいながら語ったり、感情をそのまま表に出すことも多かった。とても人間臭い選手だった。
 キャリアの最後、レイカーズでのマローンはどこか悟りを開いた好々爺といった雰囲気だった。試合後のロッカールームでも、足を氷水につけて冷やしながら、記者たちの取材をゆったりと最後まで受け、おまけにそのあと雑談にも加わるほどだった。2005年NBAファイナル第5戦、キャリア最後の試合となったあの試合で故障のためにユニフォームを着ることもできなかった時も、敗戦後にチームメイトたちが足早にロッカールームから去っていく中で、マローンは最後まで取材を受けていたのが印象的だった。
 永久欠番セレモニーの翌日、マローンについて書かれた地元紙の記事を読んでいたら、その中にこんな一文があった。
「マローンは今でも気分屋だし、時には煮えきらず、あるいは別の時には石頭である。今でも彼のやることは予想がつかず、かなりの割合で扱いにくいが、しばしば時間と金銭に太っ腹なところを見せる。彼は今でも不可解で、周りをかなり困惑させる。正直言って、彼のことをようやく理解したと思っているような人たちにとってもそうなのである」
 マローンを身近で長年取材してきた記者に「不可解」と言わせるくらいなのだから、一年に数回しか取材しなかったような外国の一記者が彼のことを理解しようというのが無茶だったのかもしれない。
 一つ確かなのは、マローンはいつでも自分の道を貫いたということだ。
 マローンは言う。「祖母も頑固だったし、母も頑固だった。頑固なチームメイトと共にプレイし、コーチも、そしてオーナーも頑固だった。そりゃ、俺だって頑固にもなるよ」と。
 ちなみに、マローンによると頑固なヘッドコーチ、ジェリー・スローンは一試合に何回もストックトンとマローンのプレイ・セットを繰り返しコールしていたという。「まったく俺ですら飽きてしまったくらいさ」とマローンは笑っていた。しかし、スローンいわく、実はそういったチームのフォーメーションから頻繁に外れ、自分のやり方を貫いていたのも、マローンだったという。
「彼(マローン)とは何度も話し合わなくてはいけなかった」とスローンは言う。「みんなが思っているほど、(自分とマローンの間は)すべてがバラ色だったわけではない。否定的な意味ではないが。つまり、彼は私の仕事を理解していたし、私も彼の仕事を理解していたというわけだ」
 それだけ頑固だったからこそ、マローンはNBAでプレイすることができ、グレイト・プレイヤーと言われるまでになった。
「カールより能力がある選手もいたかもしれない。彼よりスキルを備えた選手、彼よりうまくドリブルできる選手もいた。それでも、彼はグレートプレイヤーとなるためにできることをすべてやったから、これだけの選手になった」と、スローンは愛弟子をたたえる。
 それだけ頑固だったからこそ、マローンはジャズで18シーズンもプレイし続けた。何度もスローンと衝突し、オーナーのラリー・ミラーとも幾度となくおおっぴらにモメ、少ししてから互いの誤解を解き、涙を流して仲直りをするということを繰り返し、ジャズのユニフォームを着続けた。
 ラリー・ミラーは言う。
「一つ確かなことは、山あり谷ありだったけれど、私の人生も、このフランチャイズも、彼ら(ストックトンとマローン)がいたおかげでずっと恵まれていたということだ」
 そして、自分の道を貫いたからこそ、マローンは最後の1シーズンをロサンジェルスで過ごした。
 永久欠番セレモニー前の記者会見で、ユタの地元記者からジャズを離れたことを後悔しないかと聞かれたマローンは、いつもの頑固で、自己弁護的で負けず嫌いなマローン節で答えた。
「きょうは後悔する日ではない。それに、俺は自分がやりたいと思ったことをやったのであって、人が俺にやってほしいと思っていることをやったわけではない。人生には時に変化も必要だ。18年も君たちにあげたんだ。いったい、その上さらに何年欲しいって言うんだい?」
 19シーズンのNBAキャリアでリーグMVPを2度受賞、通算得点でリーグ歴代2位の記録を残したほか、多くの賞と記録を手に入れ、オリンピック金メダルも2つ取ったマローンだったが、一つだけ手にすることができずに終わったものがある。NBA優勝トロフィーだ。NBAファイナルには3回(ジャズで2回、レイカーズで1回)出場しながら、あと一歩のところで優勝を逃していた。それが別の結果になっていたらと願うことはあるかと聞かれ、マローンはきっぱりと否定した。
「(違う結果を)願うということは、それは自分が全力を出さなかった時にすることだ」
 1年前、現役からの引退を発表したあと、マローンは家族を連れて故郷ルイジアナに戻った。_マローン・ティンバー_という名の材木会社を経営するほか、トラック専門の洗車場などいくつか小さなビジネスを手がけている。そして、その合間には家族と共に過ごす時間も十分に取っているという。
「今、自分は理想的な人生を送っている。かつては夏の間に詰め込んでいたことを、一年通してやることができる。自分の時間を自分でコントロールすることができているのが、一番大きい。自分の時間を最も必要としている人たちに時間を割くことができるからね」
 現役時代の競争心を思い出すのは15歳の娘のソフトボールの試合を応援する時。試合を見ながら思わずどなっていることもあるというが、どなったあとに、娘がまだ15歳だということを思い出すのだという。
「よく、お父さんたち、お母さんたちに、(子どものスポーツに)真剣になりすぎないようにとスピーチをしていたことがあったが、今、それと同じスピーチを自分に向かってしている」とマローンは苦笑する。
*   *   *
 デルタ・センターの天井にあるストックトンの「12」のユニフォームの横にマローンの「32」のユニフォームが下げられた数時間前、デルタ・センター外ではマローンの銅像のお披露目式も行われた。ジョン・ストックトン・ドライブとカール・マローン・ドライブの交差点近くの広場。すでに建てられていたストックトンの銅像の並びである。
 自分の銅像を見たマローンは言った。
「(永久欠番となって天井からつり下げられた)ユニフォームもすばらしい。引退セレモニーもすばらしい。でも銅像は、例えば俺の子どもの子どものさらに子どもがここを歩いて、『あれはボクのひいお爺さんなんだ』と言えるのがいい。自分でここに来て、『そうだ、あれは俺だ』と言えるのがいい。あとで、すべてが終わって少し落ち着いてから、この町を去る前に、銅像のところに座り、見上げ、静かな時間を過ごしたい。ヤツ(銅像)に話しかけてもいいかもしれない。ただし、ヤツが言い返してこなければだが。もし言い返してきたら気が狂ってしまいそうだ」
 ことによると、マローン自身にとっても、『カール・マローン』という人間は、「扱いにくく、不可解で、困惑する」存在だったのかもしれない。


Posted by Yoko Miyaji at 11:09  HOOP SCOOP