月刊バスケットボール5月号

今週の逸足『JORDAN series』

1985年に発売されたマイケル・ジョーダンのシグニチャーモデル、ナイキ・エアジョーダン。ジョーダン本人がNBAから去った後もシリーズを重ね、今年で33作目の登場も予想されている。1人のルーキーの名を冠したバッシュが、その後30年以上に渡って全世界のコート、そしてストリートに欠かせない存在になるとは、いったい誰が想像しただろう。今回はジョーダンが現役の期間に発売された18のモデルと、ターニングポイントとなった“その日”をたどり、キングオブバッシュの軌跡を振り返る。   文=岸田 林 Text by Rin Kishida 写真=中川 和泉 Photo by Izumi Nakagawa  
  1985年に発売されたマイケル・ジョーダンのシグニチャーモデル、ナイキ・エアジョーダン。ジョーダン本人がNBAから去った後もシリーズを重ね、今年で33作目の登場も予想されている。1人のルーキーの名を冠したバッシュが、その後30年以上に渡って全世界のコート、そしてストリートに欠かせない存在になるとは、いったい誰が想像しただろう。今回はジョーダンが現役の期間に発売された18のモデルと、ターニングポイントとなった“その日”をたどり、キングオブバッシュの軌跡を振り返る。  

『AJ1』1985年2月9日 ルール上の盲点をついた“ブレッド”カラーのAJ   「9月15日、ナイキは革新的なバスケットボールシューズを開発した。10月18日、NBAはこのシューズをゲームから追放した。しかし幸い、NBAはあなたがこのシューズを履くことを禁止できない。エアジョーダン、ナイキから。」 1984‐85シーズンに放映されたこの“Banned”のCMから、エアジョーダン(AJ)の伝説は始まった。NBAファン、スニーカーファンなら、『初代AJは、その斬新なデザインゆえ、NBAから使用を禁止された』『ジョーダンは1試合5,000ドルもの罰金を払ってまでAJを履き続けた。実はナイキが、その罰金を肩代わりしていた』 といった逸話を耳にしたことのある人も多いだろう。だが、これらはいささか誇張気味の“都市伝説”だ。実は現在に至るまで、ジョーダンが“ブレッド(黒×赤)”カラーの初代AJを公式戦で着用している映像・写真は、ひとつも確認されていない。
CMで語られている(1984年)10月18日、ブルズはマジソンスクエアガーデンでニックスとのプレシーズンマッチを戦っている。だがこのときAJはまだ開発が始まったばかり。この日ジョーダンが履いていたのは、その原型となったシューズ、エアシップの赤×黒。NBAが「ゲームから追放した」のは、AJではなかった。 この試合の終了後、NBAはブルズに対して確かに“警告”を発している。だがその理由は、ジョーダンのシューズが「ユニフォームの統一性(Uniformity ofUniform)」を定めたルールに違反していること。すなわちチームの中で1人だけ、ユニフォームの色(白)とマッチしない黒×赤のシューズを履いていることだった。翌1985年4月26日付のLAタイムズは、発売直後のAJのブームを報じたうえで、このルールを次のように説明している。「ラリー・バードがグリーンのシューズを履けるのは、チームメイトも同じ色のシューズを履いているからだ。だがセルティックスのユニフォームはグリーンだから、赤いシューズを履くことはできな い」。   この“警告”を受け、ナイキとNBAは協議。白を基調とした“シカゴ”カラー(白×赤×黒)であれば違反とみなさないことで合意し、”Banned”のCMにも、NBA自ら許可を出している。迎えたレギュラーシーズン、ジョーダンは主にエアシップ(白×グレー、白×赤)と“シカゴ”カラーのAJでプレーしているが、同年の彼のテクニカルファウル数はゼロ。ジョーダンあるいはブルズが実際に罰金を科されたという記録も残っていない。“ブレッド”カラーのAJを履いたジョーダンが、日付とともにはっきりと確認できるのが、1985年2月9日のオールスターウィークエンドだ。彼はゴールドのネックレスにAJのウォームアップ上下、そして黒×赤のAJを着用してスラムダンクコンテストに出場し、観客とメディアの注目を一身に集めた。ナイキとジョーダンの代理人デビッド・フォークは、この日にユニフォームの着用義務がないことを事前に把握しており、4月の発売を控えたAJのPRデーとしてフル活用したのだ。ルーキーにスポットライトを奪われた先輩選手たちは苦々しく思ったはずだが、これもルール違反ではなかった。 ともあれ、この日を境にNBAが「ゲームから追放した」シューズは、若者の間でもっともクールなアイテムとなった。

『AJ2』1986年11月21日 ケガからの完全復活   プロ入り2年目、序盤に左足首を骨折したジョーダンは、レギュラーシーズンの大半を棒に振ってしまう。プレーオフではセルティックス相手に1人で63得点を記録し、ラリー・バードが「ジョーダンの姿をした神だった」という名言を残すほどの活躍を見せたものの、この試合も含めてチームは3連敗で敗退している。 真価が問われたプロ入り3年目。AJ2を履いたジョーダンは大車輪の活躍を見せ、開幕戦を含む8試合で50得点以上を記録(うち2試合は60得点以上)。シーズン平均37・1得点で初の得点王に輝く。前年欠場したオールスターゲームにもAJ2で出場、スラムダンクコンテストでは初のチャンピオンも獲得している。特筆すべきは11月21日のシカゴでのニックス戦。ジョーダンは試合終盤の6分間で、ブルズの全得点となる18得点を記録し(この日は結局40得点)、勝利をもぎ取っている。

『AJ3』1988年2月7日 伝説のフリースローレーンダンク   ジョーダンの活躍と裏腹に、AJ2のセールスは不振だった。100ドルという高価格(初代は65ドル)に加え、ナイキの象徴であるスウッシュをなくしたデザインも賛否両論だった。ナイキは1987年5月、ジョーダン一家と会議を持ち、ブランド戦略の見直し提案する。テーブルには、のちにAJシリーズを長く手掛ける ティンカー・ハットフィールド(現・ナイキ副社長)のデザインによるAJ3の サンプルと、現在まで続くジャンプマンロゴのスケッチがあった。 迎えた1987‐88シーズン、ジョーダンは前年を上回る活躍を続け、地元シカゴでのオールスターを迎える。スラムダンクコンテスト決勝の相手は“ヒューマン・ハイライト・フィルム”の異名を持つドミニク・ウィルキンズ(当時ホークス)。勝負を決めたのは、白のAJ3を履いたジョーダンによる、フリースローレーンからのダンクだった。 ナイキはこの週末に合わせ、気鋭の映画監督 スパイク・リーを起用したAJ3のCMを放送。翌日のオールスターゲームでもMVPを獲得したジョーダンとAJの人気は全国区となった。

『AJ4』1989年2月17日 ナイキとの再契約   「マイケルとナイキの契約がようやく合意に達したことを喜んでいる。両者はお互いに必要な存在なんだ」 ジョーダンの父ジェームズは、1989年2月17日、ジョーダン26才の誕生日に開催された記者会見でこう語った。この日ナイキはジョーダンとの契約更新を発表。ジョーダンは数日前にオールスターでお披露目したばかりのAJ4をかたどったバースデーケーキを自ら両親に切り分け、26本のキャンドルを吹き消した。新しい契約は7年総額2000万ドル以上とも言われ、“無謀”とも言われたプロ入り時の契約を、さらに上回るものだった。 AJ3から始まったスパイク・リーによる“マース・ブラックモン”のCMシリーズも継続。2月14日に「火星とその他の宇宙で(CMより)」で発売されたAJ4は、またたくまに少年たちのマストアイテムになっていった。

 

『AJ5』1990年5月14日 「Your Sneakers or Your Life(スニーカーか、命か)」   1990年5月14日号の「スポーツイラストレーテッド」誌は、ジョーダンにとってショッキングなものだった。それまで何度も自身の華麗なプレーが彩ってきたその表紙には、右手に銃を、左手にAJ5を握ったアフリカ系と思しき少年の手元が描かれていた。 メリーランド州では15歳の少年が、数週間前に115ドルで購入したばかりのAJを強奪され、裸足の絞殺体で発見された。犯人は被害者と同じバスケ部に所属する17歳の少年(※)だった。ヒューストンでもやはり16歳の少年が、ギャングにAJを差し出すことを拒否し射殺された。「Your Sneakers or Your Life(スニーカーか、命か)」と題されたこのカバー特集では、全米でこうした犯罪が多発する一方で、ドラッグの売人が新しいジャケットやスニーカーを次々と買い替え、子どもたちの間でトレンドセッターとなっている現実が描かれていた。   「ドラッグの売人の稼ぎが僕の収入になっているんだとしたら、AJなんて売らないほうがいい」。ジョーダンは泣きそうな顔でインタビュアーにつぶやいたという。 この年、ブルズはピストンズの壁に2年連続で阻まれるが、ジョーダン個人のパフォーマンスはピークを迎えつつあった。“殺人事件が起こるほどの人気スニーカー”を報じたこの記事は、皮肉にもジョーダンとAJの人気を世界中に広く知らしめる役割を果たした。 ※犯人はのちに釈放されたが、その後さらに3人の命(それも少年少女ばかり)を奪って再び収監されている。現在では最初の殺人も「シューズ欲しさ」ではなかった、との見方が有力だ。事実、奪ったAJ4は彼の足のサイズには合わなかった。

『AJ6』1991年6月12日 NBA初制覇“ブルズ王朝”の始まり   1991年、ブルズは念願のNBAファイナルに初進出。相手は当時31歳のマジック・ジョンソン率いるレイカーズだった。すでにシリーズ6作目となるAJ6のブラックを着用するジョーダンに対し、マジックはこの年初めてリースされた自身のシグニチャーモデル、コンバース・マジックでマッチアップ。振り返れば、二人の対決はNBAの世代交代を象徴していたようにも見える。 ブルズは4勝1敗でレイカーズを退けNBA初制覇。ジョーダン個人もファイナルMVPに輝く活躍を見せ、その名声は頂点に達した。この頃、日本でもバスケ誌だけでなく、ストリートファッション誌までもが「ジョーダンの新しいバッシュ」を特集し始める。また週刊少年ジャンプ誌上で漫画「スラムダンク」がスタートしたのもこのころ。主人公の桜木花道がチエコスポーツの主人から30円で無理やり購入したのは、AJ6の白×インフラレッドだった。ジョーダンとAJの人気は、国境を越え、またバスケの枠をも超えつつあった。

『AJ7』1992年8月8日 “ドリームチーム”で金メダル   「つまり、どうやって外国市場を征服するかといえば、米国内で行っているのと同じ方法で、ということになります。世界最高の貿易通貨である、スポーツを輸出するだけです」 1992年の投資家向け年次報告書で、ナイキCEO(当時)のフィル・ナイトは誇らしげにこう語っている。その集大成ともいえるイベントが、バルセロナ五輪だった。ドナルド・カッツの著書『Just do it』によれば、1991年4月末、NBAコミッショナー(当時)のデビッド・スターンはナイキを訪問し、“ドリームチーム”結成への協力を求めている。その場でスターンは、コンバースを米国代表の公式シューズとする現行の契約に変更はないが、メンバーにコンバースの着用を強制することはない、とナイトに直接約束した。国際的な舞台でのジョーダンの活躍は、そのままNBAとナイキの成功、そして競技そのものの拡大にもつながる。両者はそのことをよく理解していたのだ。   こうして超一流スターだけが結集した“ドリームチーム”が実現。五輪本戦では平均44点差という圧倒的な実力を世界に見せつけ、8月8日、クロアチア代表を破って金メダルを獲得する。星条旗のカラーをあしらったAJ7のオリンピックモデルは世界中で完売。1991‐92シーズン開始時には18か国、27名だった米国外出身のNBA選手は、2017‐18シーズン開始時には42か国(地域)、108人にまで拡大。「スポーツを輸出する」というNBAとナイキの狙いは、大成功を収めた。

 

『AJ8』1993年10月6日 父の死と最初の引退   バルセロナ五輪の興奮の余韻が残る1992‐93シーズン、ジョーダンはいらだっていた。象徴的だったのはAJ8を着用しはじめて2試合目の2月11日のペイサーズ戦。彼はライバルのレジー・ミラーとつかみ合いの乱闘を演じてしまう。厳しくなる一方のマークに加え、オフなくプレーしてきた疲労の蓄積、チームメイトとの軋轢…。加えて世界的スターとなった彼の周辺には常に記者が群がり、オフコートでも彼を悩ませた。それでもブルズはサンズとの激闘を制し見事スリーピートを達成。ジョーダンも7年連続得点王、通算2万得点、3年連続ファイナルMVPという圧倒的な成績で、周囲の雑音を封じてみせた。 だがこの年の8月、父親ジェームズの殺害というショッキングな事件が彼を襲う。「コート上で、証明するものがなくなった」 1993年10月6日、シーズンの開幕1か月前になって、ジョーダンは現役引退を表明する。モチベーションの低下、父の死、批判的な報道への嫌気など、多くの理由が語られたが、30歳での引退はあまりに突然で、早すぎるものだった。

『AJ9』1994年7月30日 マイナーリーガーとしての初ホームラン   引退の翌年、ジョーダンは野球選手への転向を表明し、シカゴ・ホワイトソックス(MLB)傘下の2Aバーミンガム・バロンズと契約。メジャーリーガーは、前年に亡くなった父ジェームズの夢だったという。ナイキもこの挑戦を支持し、特別にAJ9をベースにした野球スパイクを提供した。彼の初ホームランは7月30日、実に354打席目のことだった。ちなみに野球選手としての生涯成績は打率2割2厘、51打点、3ホームラン、30盗塁、11エラーだった。  

『AJ10』1995年3月18日 “I’m back”   ジョーダンの引退を受け、スポーツドリンクのゲーターレイドは「Be like Mike(マイケルのようになりたい!)」というキャッチコピーを、「You already are like Mike(キミはもうマイケルだ!)」へと切り替えた。NBAにはすでに“ネクスト・ジョーダン”たちが台頭し つつあった。ナイキはミッチ・リッチモンド(当時キングス)、ケンドール・ギル(当時ソニックス)、ニック・アンダーソン(当時マジック)ら有望な若手選手にAJ10を着用させ、AJを“バスケエリートのブランド”へと転換しようと試みる。これが現在のジョーダンブランドの原点だ。 一方この頃、MLBではストライキが発生。プレーのめどが立たない状況に嫌気がさしたジョーダンは、1995年3月18日、「I'm back」の短い言葉とともに再びNBAに舞い戻る。彼のバスケ復帰に伴いナイキは、トゥガードを取り外し、45の背番号を刺繍したカスタムメイドのAJ10を急ピッチで準備する必要に迫られた。AJ10はシリーズ唯一、ジョーダンの完全な了解を得ないまま製品化されたモデルだった。

『AJ11』1995年5月7日 マイナーリーガーとしての初ホームラン   シーズン終盤に現役復帰を果たしたジョーダンのプレーはしかし、明らかに以前とは異なる“低空飛行”だった。なんとかプレーオフにたどり着いたものの、らしからぬミスも目立った。 迎えたプレーオフ第二ラウンド。相手はシャキール・オニールとペニー・ハーダウェイを擁するオーランド・マジックだった。新旧スターの対決に注目が集まった敵地での初戦、ジョーダンは自らに喝を入れるように、誰も見たことのない白いナイロンメッシュと黒いエナメルレザーのシューズでコートに現れた。ヒールには「45」のプリント入り。この日ブルズは全員が黒いシューズを履いていたため、 彼の真新しいシューズは余計に目立った。そのシューズが未発表のAJ11であることが判明するのは、試合終了後のことだ。NBAは、「ユニフォームの 統一性が保たれていない」という、10年前の初代AJと同じ理由で、今度こそジョーダンに罰金5、000ドルを科した。次の試合では、リーグに届け出なく背番号を「23」へ戻したことで、さらに2万5、000ドルの罰金を科されている。

『AJ12』1997年6月11日 “フルゲーム”   前年に72勝10敗というNBAレコード(当時)を達成したブルズは、1996‐97シーズンも69勝13敗という前年に匹敵する成績でシーズンを制し、NBAファイナルに進出する。相手は、シーズンMVPを獲得したカール・マローンと、名手ジョン・ストックトンを擁するジャズだった。 1997年6月11日、2勝2敗で迎えた第5戦。ジョーダンはTV画面から見ても分かるほどの体調不良だった。表情に覇気はなく、試合開始前から異様な発汗が続き、たびたびベンチに下がっては苦しそうに水分補給。当初は「風邪(Flu)」と報じられていたが、のちにその原因は、2日前に食べたピザによる食中毒だったことが明らかになっている。 それでもジョーダンは44分間のプレーで38点、7リバウンド、5アシスト、3スティール、1ブロックを記録し、ブルズの勝利に貢献。ブルズはそのまま第6戦でも勝利し、2度目の連覇を達成した。   2013年、この試合でボールボーイを務めていた男性が、試合後にジョーダンからもらったAJ12の黒×赤をオークションに出品。ジョーダンが試合で着用したAJとしては最も高値となる104、765ドルで落札された。“FluGame”は90年代後半のブルズ王朝を象徴する試合として、多くのNBAファンの記憶に刻まれている。

『AJ13』1997年9月9日 ジョーダンブランドの設立発表   「1984年にナイキとの契約がスタートしてから、僕はAJのデザインにずっと関わり続けてきた。ジョーダンブランドは、単にそのプロセスを拡大しただけだ。ブランドを通じて自分を表現したり、次の世代の選手とつながったりすることが、とても楽しみだね」 1997-98シーズン開幕前の9月9日、ジョーダンは、ニューヨークのナイキタウンで記者会見を開催。シリーズ史上最も軽量(当時)なAJ13をお披露目するとともに、ジョーダンをディレクターとする『ジョーダンブランド』の設立を発表した。 この日発表された契約アスリートはエディ・ジョーンズ、ヴィン・ベーカー、レイ・アレンら若手NBA選手5人。さらに後日、ランディ・モス(NFL)、ロイ・ジョーンズJr. (ボクシング)、デレク・ジーター(MLB)といった、バスケ以外の競技の一流アスリートとの契約もアナウンスされた。ここからAJは『ジョーダンのためのバッシュ』から、『エリートアスリートだけが着用を許されるブランド』へと進化を遂げていった。  

『AJ14』1998年6月14日 ラストダンス、ラストショット   1997‐98シーズン、ブルズ王朝は終えんを迎えようとしていた。度重なるゴタゴタでチームは空中分解寸前。それでもブルズはイースタン首位の62勝をマークし、3年連続、90年代で6回目のNBAファイナルに進出する。相手はまたしてもジャズだった。 敵地ユタでの2試合でAJ13を履いていたジョーダンは、シカゴでの第3戦からAJ14を履いてプレー。この試合でジャズをわずか54点にシャットダウンしたブルズはシリーズの主導権を握る。 再びユタで迎えた第6戦。ジョーダンは4Q残り5秒でブライヨン・ラッセルとの1on1から鮮やかな逆転ジャンプショットを決め、2度目のスリーピートを達成する。このシュートが、ジョーダンのブルズでの「ザ・ラストショット」となった。 翌シーズン、ヘッドコーチのフィル・ジャクソンは休養に入り、スコッティ・ピペン はトレードで、デニス・ロッドマンはFAでブルズを去った。ジョーダンが正式に2 度目の引退を表明したのは、1999年1月13日のことだった。

『AJ15』2000年6月19日 MJ不在のNBAファイナルでAJを履いた選手とは?   かつてジョーダンと激しくやりあったペイサーズのレジー・ミラーは、意外にもAJシリーズの愛用者だ。ジョーダン不在のリーグにあって、彼はAJ15を履いて自身初のNBAファイナルに進出。レイカーズと対決した。ミラーはジョーダンブランド契約選手でないが、ほかにもAJ9、14、16、19、11レトロを着用している。  

『AJ16』2001年9月25日 ジョーダン2度目の現役復帰   長年デザイナーを務めたティンカー・ハットフィールドがAJを離れ、このAJ16からウィルソン・スミスがデザインを担当。ジョーダン本人の試合での着用を前提としていなかったAJ16には多くのPE(選手別注モデル)が制作され、前述のミラーのほか、レイ・アレン、マイケル・フィンリー、ヴィン・ベーカー、ロン・ハーパー、エディ・ジョーンズ、マイク・ビビーといった選手が着用した。 ところが9月25日、ジョーダンは2度目の現役復帰を発表。引退後はウィザーズの経営陣の一員だった彼は、前年に同じく現役復帰していたNHLのレジェンド、マリオ・ルミューに触発されてトレーニングを開始。911テロの被害者にサラリーを寄付することを目的に、ウィザーズと選手契約した。初試合となった10月11日のプレシーズンマッチにはAJ16を履いて出場。その後はAJ3レトロのウィザーズカラーを着用し、キックスファンを喜ばせた。

『AJ17』2002年1月4日 NBA通算3万得点 現役復帰したジョーダンは、レギュラーシーズン開幕戦から主にAJ17でプレー。39歳を迎えてもなおチームのスコアリングリーダーであり続け、1月4日には古巣ブルズを相手にNBA通算3万得点を達成している。  

『AJ18』2003年4月16日 本当の“ラストダンス” 41歳を迎える2002‐ 03 シーズンが、ジョーダンにとって“本当に”最後のシーズンとなるであろうことは、開幕前から明らかだった。さながら引退興行となったこのシーズン、彼はAJ7、9、11、16、17、Jordan Team FBIなど様々なシューズを着用。ウィザーズ戦ではコービー・ブライアントをはじめ多くの選手が、それぞれの想い入れが詰まったAJレトロを履いてジョーダンとマッチアップするシーンも見られた。 現役最後の試合は2003年4月16日のシクサーズ戦。白×ブルーのAJ18を着用したジョーダンは「We want Mike!」の大歓声に押されて28分プレーし、15得点、4リバウンド、4アシストを記録。観客のみならず、アレン・アイバーソンを含むシクサーズの選手、審判団まで加わった試合終了後のスタンディングオベーションは3回に及んだ。
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