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2017/11/10

【B.STARS Vol.10-③】田臥勇太(栃木ブレックス)

高校9冠・日本人初のNBA選手・ Bリーグ元年優勝と20年以上、 日本バスケ界の顔として君臨!   栃木ブレックス#0/173cm/PG/1980年10月5日生まれ/ブリガムヤング大ハワイ校       艱難辛苦の アメリカでの3年間    そんな充実したバスケット生活を過ごした能代工高を卒業した後、田臥が進路先に選んだのがブリガムヤング大ハワイ校。いま振り返ると、日本の逸材が選ぶ進学先として、バスケットの本場アメリカへの留学は当然のことのように思えるが、当時、当の田臥は「みんなが日本の大学に行くのに、ひとりだけ離れるのはイヤだな」と思っていたという。それでも、当時アメリカで年に一度行われていた全米ジュニア選抜チームと、世界ジュニア選抜チームの対抗戦“フープサミット”の一員に選ばれたことなどもキッカケとなり、「日本の大学で行くところはなかったし、まっすぐ実業団の大人の世界に入る勇気もなかった」と渡米した。    しかし、3年間のアメリカ留学は、田臥にとっては苦い経験の連続となった。この時の経験が後のバスケット人生を豊かにする糧ともなるのだが、当初は英語を話すことができずホームシックに。また1年目(1999年)は学校の規定で英語の勉強に専念しなければならず、試合どころか練習にも参加できない日々が続いた。そしてようやく練習に参加できるようになった2年目(2000年)、今度は過度なウエイトトレーニング(1年目に練習に参加できなかったこともあり、ウエイトトレーニングに打ち込みすぎてしまったのだ)で痛めた腰を手術したこともあり、ボールを持つことさえできなかった。    そして手術のおかげで腰の痛みも消えた3シーズン目(2001年)、田臥はついにNCAA公式戦デビューを果たし、ポイントガードとしてチームをカンファレンス(ディビジョンⅡ)優勝に導くと、西地区の6チームだけが出場できるトーナメントにも出場。そのトーナメントは1回戦敗退となったが、渡米後、初めてシーズンを通してバスケットができた年となった。    すると、シーズンを通してプレーしたことで見えてきたこともあった。まず、ヘッドコーチのコーチングスタイルが合わなかったこと。そして、英語は普通に話せるようになっていたものの、バスケットを続けながら授業についていくのが大変だったこと。『もっとバスケットに専念したい』と思い始めていたのだ。   (つづく)   ▼月刊バスケットボール編集部員が語る“田臥勇太”のここに注目!! https://sports.mb.softbank.jp/vod/player/14717  

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